関東百名山女子会・陣馬山、明神ヶ岳、檜洞丸、高尾山ビアマウントを行く

登山
旅行・地域
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 だいぶ長い間ブログを書いておりません。2月6日に行った大野山の報告を4月24日にしたとき以来です。昨年のお盆休みは山旅クラブで北海道の日本百名山に出かけましたが、今年は東京の自宅でリオ五輪を見ています。普段は相変わらずウィークデーは大洗で過ごし、週末東京に帰ってきています。大洗での生活は特段取り上げることはありませんが、出勤前に大洗磯前神社の神磯の鳥居前まで行って、日の出を眺めて、神社にお参りしています。もちろん、雨が降っていない日に限ります。今年は梅雨が長く、7月28日にようやく梅雨明けし、57日間も日の出を見ることができませんでした。写真は梅雨入り前の6月2日の日の出と、梅雨明け後の日の出です。
 <6月2日大洗磯前神社神磯の鳥居から見た太平洋のご来光>
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 <梅雨明け後のご来光>
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(第88回安曇野歌声喫茶/ねがい)

ねがい(作詞:広島市立大州中学校3年生有志、作曲:たかだりゅうじ)

もしもこの頭上に 落とされたものが
ミサイルでなく
本やノートであったなら
無知や偏見から 解き放たれて
君は戦うことを やめるだろう

もしもこの地上に 響き合うものが
爆音ではなく 歌の調べであったなら
恐怖や憎しみに とらわれないで
人は自由の歌を 歌うだろう

もしもこの足元に 植えられたものが
地雷ではなく 小麦の種であったなら
飢えや争いに 苦しまないで
共に分かち合って 暮らすだろう

もしもひとつだけ 願いが叶うならば
戦争捨てて 世界に愛と平和を
この願いかなうまで 私たちは
歩み続けることを やめないだろう

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 いつもこの欄では小学館「一日一話人物歳時記」から引用していますが、今日はこれまで何回か掲載した「村田英雄伝説」を載せます。この村田英雄伝説は2012年10月に九州の日本百名山に行ったときに浦安湯屋のともちゃんから聞いた話を文字に起こしたものです。年末に勇才さんに行ったときに、隣に座っていた年配の女性と歌謡曲の話になり、私が話した「村田英雄伝説」に大変な興味と感動を示して下さいました。再度、村田英雄伝説を掲載します。

 その昔、終生のライバルと言われた二人の浪曲師がいました。村田英雄と三波春夫です。三波春夫は1923年7月19日に現在の新潟県長岡市に生まれ、1939年16歳のときに浪曲師としてデビューします。その後、戦況悪化により三波春夫自身も1944年に陸軍に入隊し、満洲へ渡ります。三波春夫は満州で敗戦を迎え、ハバロフスクの捕虜収容所に送られて、4年間のシベリア抑留生活を送ることになりました。1949年に帰国し、浪曲師として再び活躍をはじめます。

 一方、村田英雄は1929年1月17日、現在の福岡県うきは市に生まれ、その後、唐津市へ移り、5歳のときに浪曲師酒井雲に弟子入りします。その後、村田英雄は13歳で真打に昇進し、14歳で酒井雲坊一座の座長も務め、九州の地方公演で活躍を続けます。
二人の浪曲師、三波春夫と村田英雄は浪曲の全国大会でたびたび激突することになります。しかし、いつも1位に輝くのは村田英雄であり、三波春夫は常に2番。三波はどうしても村田に勝つことはできませんでした。

 浪曲の世界では村田に勝つことが出来ないと悟った三波は、1957年に芸名を「三波春夫」と改めて、新規一転し歌謡界へとデビューします。するとどうでしょう、出す歌はすべて大ヒット。飛ぶ鳥を落とす勢いです。「お客様は神様です!」という有名なフレーズでも知られる通り、三波の天性の明るさが多くのファンを魅きつけました。

 三波の歌謡界での活躍を見ながら、村田は日本一の浪曲師を夢見て東京へ上京します。そして村田にも転機がやってきます。今や歌謡界のトップにまで上り詰めた三波春夫に歌で勝負できるのは村田しかいないと考えていた人物がいました。その人こそ、あの古賀政男です。古賀政男からの誘いに対して、最初、村田はためらいました。村田はすでに結婚もしており、果たして歌謡界でやっていけるのか迷ったそうです。浪曲の世界では常に自分がトップに君臨し、三波春夫にその座を譲ることがなかった、その三波が今や歌謡界で大活躍していることを目の当たりにし、ついに古賀政男からの歌謡界への誘いを受けることにしました。

 1958年、古賀政男とのコンビで最初に出したのが「無法松の一生」です。しかし、考えていたとおりにはうまくいかないもので、「無法松の一生」はまったくヒットしませんでした。三波春夫とは対照的に、村田英雄はヒット曲には恵まれませんでした。三波春夫が毎年のようにNHK紅白歌合戦でトリを務めているのに、村田英雄は紅白出場すら出来なかったのです。「やはり自分には歌謡界には向いていない、浪曲の世界に戻ろう。」と決心し、歌謡曲の師匠である古賀政男に歌謡界をやめたいと申し出ます。それを聞いた古賀政男は烈火のごとく激昂し、村田英雄を殴り蹴り、破門同然で古賀政男から縁を切られてしまいました。

 村田英雄と古賀政男のやりとりの一部始終を横目で見ていた作曲家がいました。失意の村田に手を差し伸べたのは、美空ひばりの「みだれ髪」でよく知られている船村徹でした。浪曲で鍛え上げた村田の重厚な声は古賀政男の曲調には合わないと、船村は考えていました。その村田に船村から贈った曲があの「王将」(作詞:西条八十)でした。王将は瞬く間に大ヒットします。最終的には300万枚を超え、戦後はじめてのミリオンセラーになったと言われています。しかも、この王将は1961年(昭和36年)と1962年(昭和37年)の2年連続NHK紅白歌合戦で歌われました。この船村徹の「王将」をきっかけに村田英雄は三波春夫と肩を並べる存在になりました。

 歌謡界で成功を収めた村田の公演会に、それを見守るひとりの男性の姿がありました。歌謡界に村田を引き入れた古賀政男です。古賀政男は自分が村田を歌謡界へ誘った責任を感じていたのでしょう。成功した村田の姿を見て、古賀政男は安心して帰って行ったと言います。

(浦安湯屋ともちゃんの「村田英雄伝説」より)
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 山行のほうは大野山以降、関東百名山女子会として5月に陣馬山、明神ヶ岳、6月に檜洞丸、7月に高尾山とビアマウントに連れて行っていただきました。歩の会は3月と5月に参加する予定でありましたが、いずれも勤務の都合で参加することはできませんでした。1ヵ月に1回行くかどうかという頻度になっています。
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 いずれの山も低山ですので、標高差は昨年までの山行に比較すればたいへんと言うことはなく、たいしたことはないと思っていましたが、3ヵ月ぶりの陣馬山は最初の急登でグッタリでした。山は常日頃から鍛練を積んでいないと痛い目に遭うということを思い知らされました。それにしても70歳目前のお菊さんはあっという間に先に行ってしまい、いい歳りょうちゃんは置き去りにされてしまいました。
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 陣馬山から小仏峠まで多くの花が咲いていました。イカリソウは漢方薬では強壮剤になるそうです。イカリソウを煎じて飲めば、少しは歩くのが早くなったでしょうか。
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 明神が岳も暑さにグッタリという感じでした。山頂までのほとんどは樹林帯ではなく、容赦なく日が照りつけてきます。また単調な登りに対して、降りは登り返しの多いこと。これに暑さが加わり、またもや最後方で明神ヶ岳の山行を終えました。
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 登山前に山行の無事を祈りました。
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 明神ヶ岳山頂から見た大涌谷。
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 山頂での記念撮影。
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 金時山が見えました。下山後は高速バスに乗って東京駅まで戻ってきました。
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(あづみ野うたごえ喫茶/わさびの花の咲く頃)
わさびの花の咲く頃(作詞、作曲:掘六平)

わさびの花は 白い十字架
初夏の風に 笑ってなびく
まだ雪のこる アルプスの
すそ野は田植えの 今盛りなり
こんなところさ 俺たちの村

腰の痛さに ふっと顔上げりゃ
いやにぼんやり 有明山よ
雪に浮き出す 蝶ヶ岳
小腹すいたぞ もうお茶の頃
こんなところさ 俺たちの村

初夏の長日も やがては暮れる
あちらこちらは 夕餉の明かり
泥にまみれて 汚れちゃ居るが
うちに帰れば おしきせもある
こんなところさ 俺たちの村



(ダーク・ダックス/銀色の道)
銀色の道(作詞:塚田茂、作曲:宮川泰、歌:ダーク・ダックス、ザ・ピーナッツ)


遠い 遠い はるかな道は
冬の嵐が 吹いてるが
谷間の春は 花が咲いてる
ひとり ひとり 今日もひとり
銀色のはるかな道

ひとりひとり はるかな道は
つらいだろうが がんばろう
苦しい坂も 止まればさがる
続く 続く 明日も続く
銀色の はるかな道

続く 続く はるかな道を
暗い夜空を 迷わずに
ふたりの星よ 照らしておくれ
近い 近い 夜明けは近い
銀色の はるかな道
はるかな道 はるかな道

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 6月4日は檜洞丸に行きました。前回の明神ヶ岳に比べ、標高差はありましたが気温が低く、涼しい中での山行となりました。檜ボラ丸の登りのみ、比較的コースタイムに近いペースで歩くことはできたと思います。しかしながら、降りの犬越路は痩せ尾根の急勾配が多く、生きた心地はしませんでした。降りにかなりの時間がかかってしまい、目標にしていたバスに乗ることができず、次のバスまで1時間以上待つことになりました。山旅クラブで同じような歩き方をしていたら、散々怒鳴られた挙げ句に置き去りにされていたことでしょう。お菊さんは檜ボラ丸犬越路の降りは平気だったようです。年をとるとお迎えも近くなり、恐怖心もなくなるようです。
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 帰りは、大野山以来、駅前の豊丸水産で乾杯しました。
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 7月2日は高尾山から小仏城山まで行き、帰りに高尾山ビアマウントに寄る予定です。最初は倉持さんと同じグループで歩き始めましたが、たちまち置いて行かれてしまい、結局、お菊さんの組で歩くことになりました。この日も暑く、終始グッタリでした。高尾山は夏に歩くものではないとつくづく思いましたが、下山後のビアマウントで飲んだビールは最高でした。
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by ryott-ryott | 2016-08-15 16:34 | 関東百名山女子会4座 | Comments(0)