カテゴリ:広島修学旅行( 9 )

広島修学旅行最終日、尾道陽だまりハイクヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 なかなかブログを更新できませんが、1月7~8日はアミューズで日本百名山の雪山・蓼科山へ、1月14~15日は淡路島&小豆島へ行ってきました。その模様はまた後日報告します。
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 さて広島修学旅行もいよいよ最終日になりました。写真は今回の修学旅行で宿泊したグランドプリンスホテル広島です。きれいな部屋に、従業員のサービスもよく、申し分ないホテルなのですが、1つだけ文句がありました。
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 今回JTBで宿泊先を選びました。辻さんと平和学習と休み山縦走を計画していたので、帰りに夕飯をご一緒することがあると思い、夕飯なしのプランを選びました。1泊23500円です。グランドプリンスを選んだ理由は海のそばで天気がよければ朝陽、夕陽が見えること、そして大浴場があるという2点で選びましたが、この1泊の料金の中に大浴場を利用できる料金は含まれていないとのことでした。朝食のみで1泊23500円は十分に高いと思うのですが、大浴場を利用するには更に1回2150円を支払わなければなりませんでした。これはホテルが悪いと言うより、JTBのプランの提案の仕方がよくないと思います。
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 広島修学旅行最終日、そのホテルの前からようやく日の出を見ることができました。今年、私にとっての初日の出です。058.gif
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 今日は東京に帰らなければなりません。その前に尾道に立ち寄ってから帰ることにしました。今日1日案内してくれるのは、広島観光タクシーニコニコキャブの三由さんです。三由さんには後日、自宅へ尾道や広島のガイドDVDを送っていただきました。有難うございました。038.gif
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 朝9時30分にホテルに迎いに来ていただき、尾道に向かいます。途中、降った雪で白く雪化粧していました。
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「放浪記」作者、林芙美子像。
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ロープウェイに乗って千光寺公園展望台へと向かいます。ロープウェイには「さくら」と「かもめ」があり、私たちが乗ったのは「さくら」でした。
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尾道水道を一望しながら、山頂駅へと登って行きます。
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展望台。
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展望台からの風景。尾道水道を一望できます。
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日立造船所の向こう側に、霞んでいなければ、石鎚山が見えるそうです。この日は見えませんでした。本堂のお母さんが教えてくれました。
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文学の小道を下っていきました。
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鏡岩。
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梵字岩。
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玉の岩。何年か前にこの石を盗みに来た外国人がおり、捕まったそうです。
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大師堂。千光寺は806年に弘法大師によって開かれました。
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鐘楼。除夜の鐘として鳴らされます。
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「音に名高い千光寺の鐘は 一里聞こえて二里ひびく」
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大仙堂。あの日本百名山のひとつ、鳥取県の大山・大山寺のご本尊、大山智明大権現でニコニコ地蔵として親しまれています。
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鼓岩、通称ポンポン岩。叩くと中が空洞であるような音がします。大坂城築城のときに石を切り出すため、そのノミの跡が残っています。
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頼山陽像。
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くさり岩。四国の最高峰・石鎚山の方角を向いており、石鎚蔵王大権現が祀られています。このくさり岩を登ると、日本百名山の石鎚山を登ったのと同じことになるそうです。今回、私は登りませんでした。
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本堂。
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中村憲吉の家。
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(第88回安曇野歌声喫茶/ねがい)

ねがい(作詞:広島市立大州中学校3年生有志、作曲:たかだりゅうじ)

もしもこの頭上に 落とされたものが
ミサイルでなく
本やノートであったなら
無知や偏見から 解き放たれて
君は戦うことを やめるだろう

もしもこの地上に 響き合うものが
爆音ではなく 歌の調べであったなら
恐怖や憎しみに とらわれないで
人は自由の歌を 歌うだろう

もしもこの足元に 植えられたものが
地雷ではなく 小麦の種であったなら
飢えや争いに 苦しまないで
共に分かち合って 暮らすだろう

もしもひとつだけ 願いが叶うならば
戦争捨てて 世界に愛と平和を
この願いかなうまで 私たちは
歩み続けることを やめないだろう

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昔から、「女は男次第」といわれますが、その典型は松井須磨子だったかもしれません。彼女の本名は小林正子。明治19年(1886年)長野県で生まれました。17歳で姉を頼って上京、その年の暮れ、木更津の旅館の若旦那と結婚しましたが、性病をうつされて離婚。病院に通ううちに知り合った高等師範の学生と再婚しました。須磨子23歳の時です。

夫が東京俳優学校の講師となったことから、須磨子も演劇に関心を持つようになりました。坪内逍遙、島村抱月など演劇研究所をつくり、女優を募集することを聞いて須磨子も応募しました。無学な須磨子でしたが、その熱心さにほだされて、別科生という補欠入所を許されました。芸に専心するため夫とも離婚しました。須磨子の初舞台は、明治44年(1911年)5月、帝劇の「ハムレット」、つづいて11月公演、イプセンの「人形の家」のノラ役で大評判をとりました。
 
その後、数々の舞台を踏みますが、指導する抱月と須磨子の仲は急速に接近し、師弟の域を越えて、男女の関係に発展して行きました。やがて二人は、芸術座を結成し、大正3年(1914年)「復活」を上演。その劇中歌として歌った「カチューシャの唄」が大ヒット。須磨子は一躍大スターの座につきました。しかし、大正7年(1918年)、日本を襲ったスペイン風邪で、11月5日、突然抱月は亡くなりました。

 最愛の人を失った須磨子は、抱月の命日の2カ月後、大正8年(1919年)1月5日、舞台化粧のまま、牛込の芸術倶楽部で縊死(いし)を遂げました。あと追い心中です。
 須磨子は「あの人と一緒に埋めて」と遺書を残しましたが、抱月夫人の反対で、実現しませんでした。

(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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尾道は坂の町で、猫が住みやすい町と言われています。
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そして、尾道商店街へ。
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船の帆に使われている布で作ったものが売られており、「帆布」と言い、尾道では女性に人気があるそうです。
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お風呂屋さんを改造して、喫茶店に。
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この喫茶店の裏に林芙美子が住んでいた家があります。この喫茶店の中に入らなければ見ることはできません。
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この蒲鉾屋さん「桂馬」はテレビにも出たことがある日本一おいしい蒲鉾屋さんだそうです。この日はお休みでした。
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因島でははっさくが採れ、大福に包んだのが「はっさく大福」です。店頭に並ぶとすぐに売り切れてしまうそうです。店を訪れた時、幸運にも出来たてが並んでいました。
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 はっさく大福を食べながらニコニコキャブに乗り、しまなみ海道へ向かいました。
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(掘六平/わさびの花の咲く頃)

(あづみ野うたごえ喫茶/わさびの花の咲く頃)

わさびの花の咲く頃(作詞、作曲:掘六平)

わさびの花は 白い十字架
初夏の風に 笑ってなびく
まだ雪のこる アルプスの
すそ野は田植えの 今盛りなり
こんなところさ 俺たちの村

腰の痛さに ふっと顔上げりゃ
いやにぼんやり 有明山よ
雪に浮き出す 蝶ヶ岳
小腹すいたぞ もうお茶の頃
こんなところさ 俺たちの村

初夏の長日も やがては暮れる
あちらこちらは 夕餉の明かり
泥にまみれて 汚れちゃ居るが
うちに帰れば おしきせもある
こんなところさ 俺たちの村



(坂本スミ子/夜が明けて)

夜が明けて(作詞:なかにし礼、作曲:筒美京平、歌:坂本スミ子)

夜が明けて 手さぐりをしてみた
ぬけがらのとなりには 誰もいない
目をあけて 部屋のなか見てみた
陽がもれる窓のそば 誰もいない
夢を追いかけて
ひとりふかす たばこのけむり
白い 白い
夜が明けて 夢をみたまくらに
あの人のかみの毛が ひとつのこる
テーブルの 灰皿の中には
あのひとのすいがらが ひとつのこる
あせたくちびるを
かんでひいた ルージュの赤が
つらい つらい

われた手鏡に
語りかける おんなの朝は
ひとり ひとり

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しまなみ海道は、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島、今治へと続きます。時間の関係上、生口島の多々羅大橋のところまで行きました。
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山の上から見た多々羅大橋。
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この木はクロガネモチ。
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尾道からしまなみ海道、そして広島空港へと帰って来ました。ニコニコキャブの三由さんともここでお別れです。東京に戻ってからFacebookで友達になっていただきました。
写真は広島空港で見た夕陽です。058.gif
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広島空港の中にある居酒屋「てっ平」。
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小いわし煮。
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利き酒2杯セット、630円。おちょこ2杯ではありません。1合の湯呑2杯です。お店の方にこの値段は安すぎないかと尋ねると、お酒に関しては奉仕でやっているとおっしゃっていました。広島空港では、この利き酒が飲みたかったのです。038.gif
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広島平和記念資料館での平和学習から始まって、休み山から音戸大橋までの縦走、獺祭酒蔵見学と広島市内めぐり、そして最終日は尾道散策としまなみ海道、3泊4日の広島修学旅行を無事に終えて東京に戻って来ました。今度、広島へ行くときには三由さんに勧められた「きのえ温泉」に行ってみたいと思います。
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次回は日本百名山、雪山の蓼科山の報告をします。
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広島修学旅行、これにて完。060.gif

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by ryott-ryott | 2012-01-17 02:21 | 広島修学旅行 | Comments(0)

獺祭酒蔵見学&広島の歴史を歩くヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 さて広島修学旅行3日目は、広島県から少し離れて山口県周防高森にある獺祭酒蔵へ行きました。広島から山陽本線に乗って岩国まで行き、そこで岩徳線(岩国-徳山)に乗り換えて周防高森まで行きます。広島から岩国まで51分、岩国から周防高森まで33分の行程です。
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 広島は晴れていましたが、お隣の山口県まで行くと雪が舞い始めました。
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 岩国駅でとてもきれいな電車が停車していました。錦川清流線です。
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 周防高森に行くには岩徳線に乗り換えます。この1両編成の黄色い電車です。
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 岩徳線に揺られること33分。周防高森駅に到着。
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 時刻表を見てください。1時間に1本もありません。駅から酒蔵まではタクシーで10分ぐらいでしょうか。タクシーの運転手さんは車で5分ぐらいのところで、すぐ近くだと言うので、歩いて行けるのかと思いましたが、タクシーに乗ってみて、とても歩いて行ける距離ではないことがわかりました。獺祭での酒蔵見学は毎日13時30分から30分間行われます。電車の時刻の関係から私は12時ちょうどに酒蔵の前に着きました。もう1本電車を遅らせると周防高森駅には13時29分に到着することになり、見学に間に合いません。しかし、見学開始まで90分もありました。
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 外を見ると雪はどんどん降って来ています。見学は私の他には親子連れ4名、合計5名でした。見学にやってきた親子連れの方たちも自家用車で12時過ぎに着き、見学者全員がそろったので、見学開始を1時間早めていただき、12時30分に開始していただきました。
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 この酒蔵ではお酒の他、石鹸、酒粕、レトルトカレー、ケーキを売っていました。私は300 mlのお酒を1本買って行って、ホテルで飲みました。
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 いよいよ見学開始。分析室の前で帽子と白衣を着ました。分析室の中では白衣を着た女性が分析をしており、お酒をろ過していました。分析室では糖度、アミノ酸量をおもに分析しているそうです。しかし、この旭酒造では農学部出身の新卒者を採用することはないそうです。大学での通り一遍の知識だけでは酒造りなどとてもできないというご意見でした。
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洗米は機械では行わずに人の手で行っています。洗米を行うことによって、米が水を吸収します。機械で洗米してしまうと、米が吸収する水の量のばらつきは1%以下にコントロールすることができないため、人の手で洗っています。旭酒造では吸収する水の量を0.1%にコントロールしています。038.gif
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洗米した酒米は蒸しあげて、ベルトコンベアでタンクの中に移します。タンクの前に写っている小さな缶の中には酵母が入っています。小さい容器を使っているのは他の雑菌、雑酵母が入りこまないようにするためです。お正月によく食べるミカンなどの皮には雑酵母がたくさんついているそうです。他の酵母が入りこまないように、乳酸を入れているそうです。酵母にも種類があり、繁殖力が強いものと弱いものがあり、弱いものが強いものと一緒にされると負けてしまいます。そのため、酵母の強弱によって配分をコントロールしています。
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米から糖分をつくりだす麹室。この中は37から38 ℃に保ちながら、湿度を下げています。湿度があることによって、雑菌が入りこみやすくなります。
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 恒温室で発酵を行います。温度は9 ℃くらいにコントロールします。発酵がすすむと温度は11 ℃くらいまで上昇します。現在は恒温室、冷却装置、サーミスターで温度コントロールしていますが、温度コントロールする機器がなかった時代は杜氏さんが手で温度を感じ取っていたそうです。ただその日の陽気によって感じ取る温度にも誤差が生じていたそうです。酒造りはかつては秋から冬にかけて行われていましたが、現在、旭酒造では年間4期酒造りを行っています。038.gif
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 圧搾機。
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 遠心分離機。遠心分離では40%しか酒を採取することができません。
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 びん詰と火入れをしていました。
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 13時少し過ぎ、およそ30分間の酒蔵見学は終了しました。電車の時刻は13時38分でした。これを逃すと15時1分になってしまいます。酒造の方が大急ぎで駅まで送ってくれました。有難うございました。
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(第88回安曇野歌声喫茶/ねがい)

ねがい(作詞:広島市立大州中学校3年生有志、作曲:たかだりゅうじ)

もしもこの頭上に 落とされたものが
ミサイルでなく
本やノートであったなら
無知や偏見から 解き放たれて
君は戦うことを やめるだろう

もしもこの地上に 響き合うものが
爆音ではなく 歌の調べであったなら
恐怖や憎しみに とらわれないで
人は自由の歌を 歌うだろう

もしもこの足元に 植えられたものが
地雷ではなく 小麦の種であったなら
飢えや争いに 苦しまないで
共に分かち合って 暮らすだろう

もしもひとつだけ 願いが叶うならば
戦争捨てて 世界に愛と平和を
この願いかなうまで 私たちは
歩み続けることを やめないだろう

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「君はどんなものを食べているか言ってみたまえ、君がどんな人であるか言ってみせよう」ブリヤ・サラバンの言葉です。

 では、この食べ方はどうでしょう。
 「朝食は卵のほか、魚のフライ、ステーキ、それに必ず毎朝1.5リットルのオレンジジュース。11時半は昼食前のスナックと称して2ダースのカキ、またはハマグリ。
昼食には伊勢エビ3匹とステーキ、午後の間食は魚料理。
夕食は必ずブロードウェーの高級料理店“レクタ―”に出かけて、まずはカキを3ダース、カニを6匹、カメのスープを前菜とし、そのあと伊勢エビ7匹、カモを2羽分、それに大きなサーロインステーキ。
食後のデザートに約1 kgのチョコレートを食べる。」加藤秀俊『一年諸事雑記帳』(文春文庫)に紹介されている、世界一の美食家・大食家といわれた、アメリカの億万長者J・ブラディです。

 当然のことながら胃腸をこわし、1917年1月4日、61歳で亡くなりました。好きなものをたらふく食べて、早死にしましたが、本人にとってそれが本望なのかもしれません。

 スウェーデンのカロリンスカ医科大学名誉教授で、老齢額の世界的権威フォルケ・ヘンシェンは、長生きと食生活について、こんな見解を示しています。「百歳以上長生きした人たちに、長生きの秘訣を聞いても混乱するだけだ。ある人は菜食主義者であり、ある人は魚を食べ、ある人はタバコを吸わず、ある人は肉をたくさん食べる。なかには毎晩酒を飲み、酔っぱらって寝込む人もいる。・・・・・・」(長渡敏幸『この人、そして食』文理書院)
 あまり食べ物に神経質になるのも疑問ですね。

(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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酒蔵見学が1時間繰り上がり、思いのほか早くに広島駅に戻って来ることができたので、縮景園と広島城を見物することにしました。
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縮景園は1620年、浅野長晟(ながあきら)のときに広島藩の別邸の庭園として、家老の上田宗箇がつくらせました。浅野長晟は浅野長政の次男です。有名な赤穂藩の浅野匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は長政の三男、長重の4代目にあたります。
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縮景園は中国の西湖を模しており、幾多の景勝を凝縮していることから、その名前は由来していると言われています。1940年に浅野家から広島県に寄付され、原爆によって壊滅してしまいましたが、整備を進めて復元されました。
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(掘六平/わさびの花の咲く頃)

(あづみ野うたごえ喫茶/わさびの花の咲く頃)

わさびの花の咲く頃(作詞、作曲:掘六平)

わさびの花は 白い十字架
初夏の風に 笑ってなびく
まだ雪のこる アルプスの
すそ野は田植えの 今盛りなり
こんなところさ 俺たちの村

腰の痛さに ふっと顔上げりゃ
いやにぼんやり 有明山よ
雪に浮き出す 蝶ヶ岳
小腹すいたぞ もうお茶の頃
こんなところさ 俺たちの村

初夏の長日も やがては暮れる
あちらこちらは 夕餉の明かり
泥にまみれて 汚れちゃ居るが
うちに帰れば おしきせもある
こんなところさ 俺たちの村



(坂本スミ子/夜が明けて)

夜が明けて(作詞:なかにし礼、作曲:筒美京平、歌:坂本スミ子)

夜が明けて 手さぐりをしてみた
ぬけがらのとなりには 誰もいない
目をあけて 部屋のなか見てみた
陽がもれる窓のそば 誰もいない
夢を追いかけて
ひとりふかす たばこのけむり
白い 白い
夜が明けて 夢をみたまくらに
あの人のかみの毛が ひとつのこる
テーブルの 灰皿の中には
あのひとのすいがらが ひとつのこる
あせたくちびるを
かんでひいた ルージュの赤が
つらい つらい

われた手鏡に
語りかける おんなの朝は
ひとり ひとり

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縮景園を見学した後は広島城へ行きました。戦前の広島城は原爆によって破壊されたため、現在建っている広島城は戦後に復元されたものです。
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 1520年代、広島城は太田川支流のデルタ地帯を埋め立てて毛利家が築城したものです。その後、毛利家は関ヶ原の戦いで西軍についたため、東軍で活躍をした福島正則が入城します。その当時、城を普請するには幕府の許可が必要でしたが、正則は城の改築を許可なく行ったため秀忠の怒りを買い、現在の長野県に島流しになりました。福島正則にかわって広島城をおさめることになったのは浅井長政の次男、長晟でした。長晟の兄弟の末永に赤穂藩の長矩(浅野匠頭)がいます。
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広島城の天守閣から原爆ドームが見えました。
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広島城内の観覧は17時までです。城を出ると、宮島の方角に夕陽が見えました。
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近くの廣島護国神社にお参りしました。
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広島駅の駅ビルの中に牡蠣の専門店があり、牡蠣を食べました。「かなわ」とおうお店です。東京・銀座にもあるそうです。
酢牡蠣、私はこれが一番おいしかったと思います。038.gif
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牡蠣の塩辛。
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牡蠣のしゅうまい。
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生牡蠣。
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牡蠣の釜めし。
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鯛の酒とう。
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広島修学旅行はまだまだ続きます。060.gif

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by ryott-ryott | 2012-01-10 00:05 | 広島修学旅行 | Comments(2)

休み山から音戸大橋へ、平清盛伝説の瀬戸を行くヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 さて広島修学旅行2日目は引き続き辻さんと呉市にある休み山(標高501 m)から今話題になっている平清盛で有名な音戸大橋まで歩いて来ました。
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 朝8時48分広島発広行の呉線に乗って、呉に向かいます。呉線沿線にはマツダやセーラー万年筆の工場があります。隣の駅までの間隔はおよそ数分で、呉線には急行もありますが、マツダの最寄り駅には停まらないそうです。
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 呉駅前。休み山を目指して、駅前から歩き始めました。海抜0 mからの登山になります。
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 高田帽子店。緒方拳主演のNHKドラマ「帽子」の舞台になった高田帽子店。辻さんも帽子を購入されたそうです。1月3日は開店していませんでした。
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 高校の向こうに見えるのがこれから向かう「休み山」。
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 今年初めての初登山の無事を祈願し、亀山神社へお参りしました。
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 しばらくは町の中を歩いて行きます。
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 源宗坊の奇怪な銅像がありました。
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 駅前からあること約1時間、休み山の登山口に到着しました。10時39分。
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 しばらくは単調な登りが続きます。またところどころ車道を通ったり、横断します。休み山への登山道は車道とほぼ並行していました。
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 中腹からの展望。辻さんの職場もこのあたりに見えるそうです。11時12分。
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 そして30分ほど登山道を歩いてゆくと、休み山の頂上につきました。11時40分。
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 休み山頂上の展望台でお昼ご飯を食べました。思ったよりも風が少なく、おだやかな陽射しでした。ただ今日は雲もあり、四国は見えませんでした。展望がいいと愛媛の松山の街並みを見ることができるそうです。
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展望台で記念撮影。辻さんは普段はマラソンをされているアスリートであり、66歳のときに剱岳へ登られたそうです。今年、私の最大目標は剣岳へ登ることだとお話したら、難しい山ではないからと言って、激励してくれました。辻さんが今まで登られた山では白馬岳の山小屋はまるで高級ホテルのようだったとお話されていました。
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 約1時間展望台でお昼を食べながら、登山やお互いの仕事の話などをして、音戸大橋に向かって出発しました。12時40分。
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 先ほどまでいた休み山がみるみる小さくなっていきました。
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(第88回安曇野歌声喫茶/ねがい)

ねがい(作詞:広島市立大州中学校3年生有志、作曲:たかだりゅうじ)

もしもこの頭上に 落とされたものが
ミサイルでなく
本やノートであったなら
無知や偏見から 解き放たれて
君は戦うことを やめるだろう

もしもこの地上に 響き合うものが
爆音ではなく 歌の調べであったなら
恐怖や憎しみに とらわれないで
人は自由の歌を 歌うだろう

もしもこの足元に 植えられたものが
地雷ではなく 小麦の種であったなら
飢えや争いに 苦しまないで
共に分かち合って 暮らすだろう

もしもひとつだけ 願いが叶うならば
戦争捨てて 世界に愛と平和を
この願いかなうまで 私たちは
歩み続けることを やめないだろう

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社会主義の国と違って、自由主義国、わけても日本から他の国に亡命することはほとんどありません。それが、戦争前の昭和13年(1938年)1月3日、まだ日本の領土であった樺太(サハリン)の国境を、人気女優がその愛人と、恋の逃避行を兼ねて、ソ連に越境、亡命をはかったのですから、当時としては大変な話題を巻き起こしました。その第一報を伝えた新聞記事です。

「新派、井上正夫一座の女優岡田嘉子(38)がひょっこり厳寒の北樺太に登場。北緯50度の国境線近くで行方不明となり、関係方面で目下捜索中である。嘉子は実父が昔、樺太で事業に関係したところから、かねて雪の樺太にあこがれをもっていたが、この暮れ、出演契約中の大阪の劇場から1ヵ月の休暇をもらったので、若き愛人、新協劇団所属の演出家杉本良吉こと吉田好正君(32)と携えて樺太を訪問し、雪の異国情調を満喫すること2日、慰問袋その他を買い、国境線守備隊の警察官慰問に出かける旨を宿の者に残し、自動車で国境に向け出発した。」(「東京日日新聞」5日付)

 当時、亡命は確認されませんでしたが、戦後2人ともモスクワ放送局の日本向けアナウンサーとして手伝っていたことが明らかにされました。彼女はその後、モスクワ大学で演劇を学び、病死した愛人杉本良吉の遺志をついで、演出家として活躍していました。
 
しかし、“望郷”の念もだしがたく、昭和48年(1973年)、35年ぶりに日本に帰ってきました。ときどきソ連に戻ったりしましたが、日本に滞在し、たまにテレビドラマに出演したりしながら日ソ親善のために尽くしました。

(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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梅の木峠を越えて、三津峰山へ。標高380 m。三津峰山展望台からの展望。造船所、製鉄所などの工場地帯が広がります。港には潜水艦が停泊しているのが見えました。
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上の方に写っている白い細長い建物は弾薬庫だそうです。
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戦時中、この場所から飛んでくるアメリカ軍のB29を狙って鉄砲で撃ったそうです。戦没者慰霊碑が建っています。
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(掘六平/わさびの花の咲く頃)

(あづみ野うたごえ喫茶/わさびの花の咲く頃)

わさびの花の咲く頃(作詞、作曲:掘六平)

わさびの花は 白い十字架
初夏の風に 笑ってなびく
まだ雪のこる アルプスの
すそ野は田植えの 今盛りなり
こんなところさ 俺たちの村

腰の痛さに ふっと顔上げりゃ
いやにぼんやり 有明山よ
雪に浮き出す 蝶ヶ岳
小腹すいたぞ もうお茶の頃
こんなところさ 俺たちの村

初夏の長日も やがては暮れる
あちらこちらは 夕餉の明かり
泥にまみれて 汚れちゃ居るが
うちに帰れば おしきせもある
こんなところさ 俺たちの村



(坂本スミ子/夜が明けて)

夜が明けて(作詞:なかにし礼、作曲:筒美京平、歌:坂本スミ子)

夜が明けて 手さぐりをしてみた
ぬけがらのとなりには 誰もいない
目をあけて 部屋のなか見てみた
陽がもれる窓のそば 誰もいない
夢を追いかけて
ひとりふかす たばこのけむり
白い 白い
夜が明けて 夢をみたまくらに
あの人のかみの毛が ひとつのこる
テーブルの 灰皿の中には
あのひとのすいがらが ひとつのこる
あせたくちびるを
かんでひいた ルージュの赤が
つらい つらい

われた手鏡に
語りかける おんなの朝は
ひとり ひとり

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そして休み山から音戸大橋への縦走も終盤へ。平清盛像がある音戸の瀬戸公園へ到着しました。
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現在の音戸大橋。
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現在建設中の新しい音戸大橋。2年後に完成予定です。
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吉川英治文学碑。
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向こう側には音戸渡り船で渡らなければなりませんが、1月3日はお休みでした。音戸大橋は交通量が多く、とても歩いてゆくことができないので、タクシーを呼んで、音戸大橋を渡りました。
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音戸大橋の下に平清盛を祀った平清盛塚があります。
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呉の街並み。
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 清盛塚の近くのバス停からバスに乗って呉駅に帰って来ました。バスに乗ったのが16時26分だったので、朝、呉駅前から歩き始めて6時間40分以上経っていました。ふたたび呉線に乗り、広島駅まで帰ってきました。呉線沿線にも原爆慰霊碑が建っていました。
 広島駅前で辻さんと焼き牡蠣で乾杯しました。2日間にわたって、平和記念資料館、休み山縦走を案内してくれた辻さんともここでお別れです。辻さん、本当にありがとうございました。また広島に平和学習に行きます。その時はまた宜しくお願いいたします。
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広島修学旅行はまだまだ続きます。

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by ryott-ryott | 2012-01-09 09:39 | 広島修学旅行 | Comments(10)

相手を憎むことだけでは平和は訪れない、広島修学旅行ヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 皆さん、今年もよろしくお願いします。元旦はいつものことながら、家で正月料理を食べました。次の写真はアレグロピアットで買ったイタリアンのおせち料理です。038.gif
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 そして夕方はじゃんけんぽんのトントンさん、はるさんのお宅にお呼ばれし、ご馳走になりました。おいしいお料理、有難うございました。今回、写真を撮り忘れましたが、はるさんが一年に一度しかつくらない料理のローストビーフを戴きました。
 それからトントンさんの妹のミキちゃんが飼っている、あの憎らしい咬みつき犬もお宅に連れて来られていました。私を見るなり、けたたましく吠えついて、新年のご挨拶。今年はじめての殺意に駆られました。私に限らず誰かがお手洗いに立つたびに吠えつくので、一番悪い咬みつき犬の首領を捕まえて、コタツのコードで縛りつけて動けないようにしてしまいました。すると身動きできないためか誰かが立ちあがっても、吠えつかなくなりました。咬みつき犬の首領が吠えつかなければ、他の2匹も大人しくしています。次回から咬みつき犬は縛り上げることにします。
 次の写真は昨年撮ったローストビーフの写真、おいしさは変わりません。038.gif
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 私は1月2日から5日まで広島に出かけていました。昨年の1月に平和記念資料館を訪れた時に知り合ったピースボランティアの辻さんに再び館内を案内していただき、原爆に関する平和学習をしました。そして、翌日、その辻さんと一緒に広島呉市にある休山(やすみやま、標高501 m)から音戸大橋まで縦走してきました。
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 2日は朝7時20分羽田発のボーイング787に乗り、広島空港へ。ボーイング787の中はすごいですね。各席にテレビがついており、窓から入って来る陽射しはボタンを押すことにより窓が青く色づき遮光するようになっています。
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 私は映画「サラリーマンNEO劇場版」を見ましたが、広島までの飛行時間ではすこし時間が足りませんでした。
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 飛行機の窓から見えた富士山。飛行機で富士山を見る時は、左のA列に座らなければ、見ることができないことがようやくわかりました。羽田空港での地上は日の出が見えないほど曇っていましたが、富士山ははっきりと見えました。
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 いつものことながら5分遅れで飛行機は出発しましたがほほ定刻の9時30分に広島空港に到着しました。広島空港からはリムジンバスに乗って、広島バスセンターに向かいます。片道1300円。車窓からは雪が確認できました。前の晩に雪が降ったそうです。少し渋滞がありましたが、約65分で午前10時50分に広島バスセンターに到着しました。荷物をコインロッカーに預けて、辻さんと待ち合わせをしている広島平和記念資料館に向かいました。
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 相生橋。
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 被爆前の相生橋。
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 原爆ドーム(広島県産業奨励館)。
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 被爆前の原爆ドーム(広島県産業奨励館)。大変に貴重な写真です。
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 原爆の子の塔、たくさんの折り鶴が飾られています。
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 「平和の池」、「平和の灯」の向こう側に原爆死没者慰霊碑があります。慰霊碑からは原爆ドームが見えるようにつくられています。
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 祈りの泉。ちょうど陽射しがあり、太陽が真上に来るように写真を撮りました。
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 広島平和記念資料館。ここで辻さんと再会しました。辻さんは週に1度、おもに土曜日にピースボランティアとして平和学習の案内をされています。この日、私のわがままに付き合っていただき、平和記念資料館の中を説明案内していただきました。
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 ローマ法皇から寄せられた平和アピールの碑。上の2つのオブジェはハトをあらわしています。
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 平和の時計。原爆投下からの日数と、最後の核実験が行われた日からの日数を刻んでいます。最後の核実験が行われてから、1年も経っていません。
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 そして、もうひとかた、辻さんのボランティア仲間で同じく週1回平和学習の案内をされている細川さんを紹介していただきました。細川さんはIAEAのお仕事をされていた方で、原子力に造詣が深く、興味深い話をしてくださいました。
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 原爆ドームは1915年(大正4年)にチェコ人の建築家ヤン・レツル(Jan Letzel)が設計したことは昨年の広島修学旅行の記事で紹介しました。このヤン・レツルに設計を依頼したのは当時の広島県知事の寺田知事でした。寺田知事は、広島県知事の前に宮城県知事をしており、ヤン・レツルが設計した松島パークホテルを見て、広島県産業奨励館の設計をヤンに任せることを決めました。当時の県知事は公選ではなく、官邸から任命されていました。当時、この洋風の建物は太田川の支流である元安川と本川で形成された大デルタ地帯に実によくマッチしたと言われています。
 この他にもヤンが設計した有名な建物には上智大学の校舎があると聞いて驚きました。私が通っていたころの1号館は現在すでに取り壊されていて、近代的なビルになっています。その前に立っている4号館は昨年6月の時点でまだありましたが、遠くない将来に、理工学部の移転などに伴って取り壊されると言うことを聞きました。私もはじめてこのことを知りましたし、毎年ゲンダマ会に参加している人お何人が「原爆ドームの設計者と上智大学の校舎の設計者が同一人物であること」を知っているでしょうか。おそらくは誰も知らないのではないでしょうか。ヤンは他には双葉学園の正門やアンデルセンの建物も設計していると教えていただきました。ヤンが設計した松島パークホテルは火災で焼失し現在はないとおっしゃっていました。またチェコのライン川の傍に原爆ドームとそっくりな建物が建っていますが、この建物はヤンが設計したものではないそうです。チェコに観光に行った日本人はよく同じ人物が設計したと思いこんで帰ってくるそうですが、同じ人物の設計ではありません。
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 また細川さんは現在の平和学習は片手落ちの部分もあるとおっしゃっていました。広島への原爆投下は原爆搭載戦闘機B29エノラ・ゲイによって投下されたことはご承知の通りです。このときエノラ・ゲイには2機の随伴機を伴っていました。エノラ・ゲイは原爆投下後、その衝撃波を避けるため急旋回して立ち去りましたが、2機の随伴機のうち、1機は墜落して全員死亡、もう1機は不時着して、2名のアメリカ人が捕虜として捕えられました。その当時、広島に捕虜収容所があったため、その2名は広島に送還されて被爆して死亡しました。この2名のアメリカ人の名前も原爆死没者名簿の中にきちんと記録されているそうです。しかしながら、現在の平和学習ではこの事実には一切触れられていません。ボランティアの中にも賛否両論があり、触れるべきではないとおっしゃる方もいるそうです。細川さんはそういう事実を隠すべきではないとおっしゃっていました。
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(第88回安曇野歌声喫茶/ねがい)

ねがい(作詞:広島市立大州中学校3年生有志、作曲:たかだりゅうじ)

もしもこの頭上に 落とされたものが
ミサイルでなく
本やノートであったなら
無知や偏見から 解き放たれて
君は戦うことを やめるだろう

もしもこの地上に 響き合うものが
爆音ではなく 歌の調べであったなら
恐怖や憎しみに とらわれないで
人は自由の歌を 歌うだろう

もしもこの足元に 植えられたものが
地雷ではなく 小麦の種であったなら
飢えや争いに 苦しまないで
共に分かち合って 暮らすだろう

もしもひとつだけ 願いが叶うならば
戦争捨てて 世界に愛と平和を
この願いかなうまで 私たちは
歩み続けることを やめないだろう

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正月二日は、昔は仕事始めといって、職人の家では、例えば大工は鉋(かんな)を研ぐ、きりこは鋸(のこぎり)の目立をする。農家ではわらを一把だけ打つとか、それぞれ新しい年を迎えた正月行事を行いました。商家の家では、初荷、初市が催されました。一般の家庭では、芸事の事始めで、書初(かきぞめ)、弾初(ひきぞめ)、舞初(まいぞめ)が行われました。

この舞染の日に、それにあやかってか、高名な一人の日本舞踊家が亡くなりました。その人の名は、文化功労賞も授与された藤蔭流家元の藤蔭静枝です。昭和41年(1966年)1月2日、享年86歳でした。

亡くなる2年前、84歳で歌舞伎座で踊りましたから立派なものです。本名は内田八重。新潟で評判の芸妓でした。19歳の時に初恋の相手を追って上京しましたが、その人とは結婚できず、舞踊で身を立てようと、藤間勘右衛門に弟子入りをして修行しました。

3年で踊りの名取になり、新橋から舞踊芸妓八重次を名乗ってお座敷に出ました。この教養ある美人芸妓に猛烈に熱を上げたのがかの『濹東奇譚』で有名な永井荷風でした。彼女は二代目市川左団次夫妻の仲人で結婚しましたが、わずか半年で別れ、ふたたび新橋に返り咲いてしまいました。この間のいきさつは、荷風の随筆『矢はず草』に詳しく書かれています。

二人はその後は結婚せず、つかず離れず、友人として付き合っていました。離婚の原因は彼女のやきもちといわれますが、かなり激しい気性の持ち主であったようです。その気性が踊りに生かされたのだと思います。

梅の精狂う舞初うつくしく 山口青邨

(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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 細川さんから貴重なお話を聞いた後、辻さんに資料館内を案内していただきました。
原爆が広島に投下された時刻の時計の大きな写真があります。資料館には多くの学生さんが訪れますが、最近は8時15分に投下されたことを知らない子どもが増えているそうです。これは学校できちんと教えていないためだとおっしゃっており、資料館では時計の写真、8時15分で壊れて動かなくなった時計を展示しています。
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 原爆ドームの70分の3の模型。
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 アメリカ軍によって撮影された原爆の投下前と投下後の写真。
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 愛媛の松山から見えたキノコ雲。10000 mの高さあったと言われていましたが、現在、また評価しなおされて18000~20000 mの高さあったと計算されています。
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当時の中学生が来ていた服。その当時の中学生の平均身長は130 cm、体重33 kgだったそうです。
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被爆で苦しむ人のジオラマ。このジオラマは恐ろしく見えますが、実際にはこんなものでなかったと「はだしのゲン」の原作者、西沢さんはおっしゃっています。目は飛び出し、腹は裂けて、内臓が飛び出し、腸をひきずりながら、水を求めて死んでいきました。そして、西沢さんは公の場で「この戦争を引き起こした連中を絶対に許さない。」といつもおっしゃっているとお話されていました。
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 原爆体験の絵。この絵のほとんどは体験後、約30年の後に描かれています。しかし、30年経過しても原爆が投下された時の記憶は鮮明に脳裏に焼きついているとおっしゃっていました。
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 マルセル・ジュノ―博士記念碑。
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 ノーマン・カズンズ氏記念碑。
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 平和記念ポスト。
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 広島市立高女原爆慰霊碑。アインシュタインの関係式が刻まれています。辻さんにもこの式の意味を質問されましたが、この式は質量が変化した時にその質量分のエネルギーが放出か吸収されます。そのような例は実はあまりなくて、電子と陽子がぶつかった時に、その質量の和と光速の二乗の積の光子が放出される現象くらいです。原子力や原爆から有害な放射能が出てくるのは、ウランが核分裂して発生するエネルギーは結合エネルギーの放出であって、質量は保存されて、放射性原子核として残ってしまうためです。
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 この日、辻さんから2時間30分にわたって、館内の説明を受けました。昨年、一度聞いたところや私が知っているところはスキップして、説明いただきましたが、すべてを体得するにはまだまだ時間が必要だと感じました。
 広島平和記念資料館の中にはショップがあり、「はだしのゲン」も売っていますが、「図録 広島平和記念資料館 ヒロシマを世界に The Spirit of Hiroshima」という本が販売されています。展示物の簡潔な説明が一通りついています。戦前戦後の広島の様子や原爆開発の経緯、投下後の被害状況、復興への道のりなど、園内のガイドマップが2枚付いていて、1冊1000円(税込)です。闇市の様子も記載されています。辻さんから最近の学生さんは「闇市」と言う言葉を知らないと聞きました。紙の質、掲載されている写真などを見ると、1冊1000円はとても安いと思います。私も1冊買いました。
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(掘六平/わさびの花の咲く頃)

(あづみ野うたごえ喫茶/わさびの花の咲く頃)

わさびの花の咲く頃(作詞、作曲:掘六平)

わさびの花は 白い十字架
初夏の風に 笑ってなびく
まだ雪のこる アルプスの
すそ野は田植えの 今盛りなり
こんなところさ 俺たちの村

腰の痛さに ふっと顔上げりゃ
いやにぼんやり 有明山よ
雪に浮き出す 蝶ヶ岳
小腹すいたぞ もうお茶の頃
こんなところさ 俺たちの村

初夏の長日も やがては暮れる
あちらこちらは 夕餉の明かり
泥にまみれて 汚れちゃ居るが
うちに帰れば おしきせもある
こんなところさ 俺たちの村



(坂本スミ子/夜が明けて)

夜が明けて(作詞:なかにし礼、作曲:筒美京平、歌:坂本スミ子)

夜が明けて 手さぐりをしてみた
ぬけがらのとなりには 誰もいない
目をあけて 部屋のなか見てみた
陽がもれる窓のそば 誰もいない
夢を追いかけて
ひとりふかす たばこのけむり
白い 白い
夜が明けて 夢をみたまくらに
あの人のかみの毛が ひとつのこる
テーブルの 灰皿の中には
あのひとのすいがらが ひとつのこる
あせたくちびるを
かんでひいた ルージュの赤が
つらい つらい

われた手鏡に
語りかける おんなの朝は
ひとり ひとり

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 最後に平和記念館とレストハウスの地下室の見学をしました。
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 レストハウスは元大正呉服店で原爆で残った数少ない建物の1つです。当時、大正呉服店で働いていた野村さんはたまたま地下室に書類をとりに行った時に原爆が投下され、地下室にいたため助かりました。地下室にいなかった従業員は全員死亡しました。そして、大量の放射線を浴びたと思われますが、野村さんは84歳まで生きたそうです。
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辻さんと原爆ドームを前に記念撮影。
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平和の鐘。
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辻さんと再会を祝して、広島で最も賑やかな商店街で乾杯しました。辻さんからはお土産にと、4冊の本を戴きました。1冊は「Switch on, Imagination. NOW!」という核廃絶をイラストを多用してうたった本です。広島平和記念資料館の理事長Steven Leeper氏のサイン入りでした。2007年に理事長に就任されました。アメリカ人が理事長に就任されることははじめてのことだそうです。Leeper氏ははじめて原爆の惨状を見た時に、「原爆なんて、たいした威力がないなぁ。」と思ったそうです。建物も幾つか残っているし、生存者もいる。広島のすべてを壊滅することはできなった原爆など、大した兵器ではないと考えていたと言います。しかし、Leeper氏は西沢さんの「はだしのゲン」を読んで、考えが変わったそうです。放射能の後遺症など、いまだに人々を苦しめ続ける現状、永遠の平和を手に入れるにはまずは核兵器廃絶しかないという結論に至っています。
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 現在、平和学習が抱える課題は数多くあると辻さんは言います。戦後67年目を迎えて、被爆体験者は次つぎと亡くなっています。いずれは実際に原爆を体験した人はひとりもいなくなってしまう前に、風化させずに、次の世代がそれを受け継ぐことが急務であるとおっしゃっていました。また原子爆弾を落としたアメリカは憎いのだけれど、相手を憎むだけでは平和になることは決してない。このことを理解して前進することが重要だとおっしゃっていました。
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広島修学旅行はまだまだ続きます。

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by ryott-ryott | 2012-01-06 17:03 | 広島修学旅行 | Comments(1)

広島修学旅行最終話・雪の岩国錦帯橋ヽ(^o^)丿


行・地域

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今週の土曜日も大井町湯屋へ行き、大暴れアクアを思う存分やりました。プールに浸かっているだけの年配者がニコニコして、こちらを見ていると思ったら、近づいて見ると、とても怖い顔をして睨んでいました。
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広島修学旅行最終話に行く前に、今日は大井町湯屋仲間のmistyさんから新年会にお誘いいただき、築地のお店、『築地青空三代目hafu』へ連れて行ってもらいました。この「hafu」には「自由」という意味があるようです。024.gif
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中川君のレッスンでご一緒する中村姉さん、山登り初心者の私にいつもたくさんのアドバイスをしてくれる山岳部出身のてらりんさん、mistyの旦那ちゃん、そしていい歳、私の「自由」を愛する5名が集まりました。
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今回集まった方々はかつて毎日のように大井町湯屋に通い詰めて、エアロ、ステップ、アクアなどの有酸素運動を休みの日は朝から晩までやり続け、家よりも大井町湯屋で過ごす時間の方が圧倒的に多いという面々でした。私も2年以上休まずに、大井町湯屋通いを続け、それ以外にどこにも行かなかったことがあり、現在いろんな場所へ写真を撮りに出歩いていることを考えると、人生とはさまざまに変化するということでしょうか。018.gif
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「hafu」のお料理は海鮮丼が有名のようですが、岩塩の上で素材を焼いて食べる「岩塩焼き」も有名のようです。038.gif
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中村さんは来週、荏原町の「さ久」さんで新年会を計画されていたそうですが、「さ久」さんは9月いっぱいで店仕舞いしてしまったことを伝えると大変ショックを受けていらっしゃいました。

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(やしきたかじん/東京)

東京(作詞:及川眠子、作曲:川上明彦、歌:やしきたかじん) 060.gif

あんたとなら
いつ死んでもかまわへん
わすれないで
そんな女いたことを

見上げた空さえも
冷たい色やけど
あたしが本気で惚れたひと
そう生まれた街やから

いとしさも 憎しみも
すべてすべて ぎゅっと抱きしめ
祈るように 今日も灯が
ともる東京

夢だけ見て
生きてるようなあんたやった
いつかあたし
待つことにも慣れてたよ
くすんだ風のなか
肩よせ暮らしたね
誰にも似てへんひとやけど
本物の愛をくれた

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

痛いほど好きなのに
なんでなんで別れたんやろ
いまもまだ 胸の奥
揺れる東京

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

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 真白き富士の峰 緑の江の島
 仰ぎ見るも 今は涙
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
 捧げまつらむ 胸と心

 “懐メロ”でよく歌われる“真白き富士の峰”、正しくは“七里ヶ浜の哀歌”です。
 この歌は、明治43年(1910年)1月23日、午後2時ごろ、神奈川県逗子にある開成中学校(現・高校)の生徒12人が、鎌倉の七里ヶ浜の沖合で、乗っていたボートが転覆し、全員が遭難した事件を悼んでつくられたものです。

 七里ヶ浜のある湘南の海は、海水浴や、ウィンド・サーフィンを楽しむ若者で賑わうところですが、当時の1月のボート遊びは、よほど天気の良い、あたたかい日であったのでしょう。
 その日は日曜日でした。舎監の先生は、転勤するボート部長鎌倉駅まで見送りに行って留守でした。寄宿舎生の12人が無断でボートを漕ぎ出しての惨事です。
 最初はだれも知りませんでした。夕方一人の少年がオールにつかまったまま人事不省になって漂流しているのを漁師が発見して船に収容し、遭難がわかって大騒ぎになりました。

 この歌は、鎌倉女学校の教師をしていた三角錫子さんが『明治唱歌』にのっていた米人ガーデンの曲に合わせて作詞したもので、合同葬のとき、鎌倉女学校の生徒が哀悼歌として合唱したものです。それが大流行し、大正時代の愛唱歌になりました。

 七里ヶ浜突端の稲村ケ崎の小公園に、二人の少年をかたどったブロンズ像の遭難碑が建っていますが、そこにこの歌詞が刻まれています。
 現在はあまりにも大きな事故が多く、このような“哀歌”を捧げきれません。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(五木ひろし/契り)

契り(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、歌:五木ひろし)060.gif

あなたは誰と ちぎりますか
永遠の心を 結びますか

波のうねりが岸にとどく
過去の歌をのせて
激しい想いが 砕ける涙のように
緑は今も みずみずしいか
乙女はあでやかか
人の心は鴎のように
真白だろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

朝の光が海を染める
生きる夢に満ちて
まぶしい願いが きらめくいのちのように
流れは今も 清らかだろうか
子どもはほがらかか
人はいつでも桜のように
ほほえむだろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

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広島修学旅行最終日は宮島に別れを告げて、広島をはなれて山口県の岩国へ錦帯橋を見に行きました。岩国は宮島から山陽本線で26分、意外に近いところです。
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錦帯橋は1673年、第3代岩国藩主吉川広嘉によって創建されましたが、昭和25年(1950年)9月にギジア台風によって流失してしまいました。その後昭和28年(1953年)に再建、平成13年から15年かけて、架替えられています。
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大名小路。その昔、この通りを大名行列が通りました。
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私が訪れたとき、錦川で鵜飼い神事が執り行われていました。
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吉香公園。058.gif
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岩国の白蛇は天然記念物に指定されています。018.gif
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岩国城へはロープウェイで。展望台からの眺望。058.gif
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先ほどまで天気がよかったのに、突然、にわかに掻き曇り、雪が降り出しました。
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目加田家。目加田家の壁には船を常に繋いでおり、錦川が氾濫した時に繋がれた船に乗って避難したそうです。
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振り袖瓦。瓦の両端が振り袖状になっています。この振り袖瓦にすると2種類の瓦を作らなければならないので、現在はコストの安い片袖式がほとんどを占めています。
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三又のつぼみ。これから黄色や赤、オレンジの花を咲かせます。056.gif

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錦帯橋の周辺を散策し、帰りの便の時間が近づいてきたので、広島空港へ向かいました。
広島空港の中にあるお店「てっ平」。グラス2杯の利き酒セット630円。好きな酒2種類を選んで、その利き酒をさせてくれるというメニューです。東京の店の感覚では、小さいおちょこにお酒を2杯持ってくるのかと思いましたが、湯のみ冷酒をなみなみと表面張力で液面が盛り上がるまで注いでくれました。私は嬉しくなって、5杯飲んでしまいました。1杯は山口県のお酒の獺祭(だっさい)をいただきましたが、それでもテーブルにこぼれるくらいに湯のみになみなみと入れてくれるのに、630円は安すぎる値段です。

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お店の方が、私の飲みっぷりを見て、たくさん飲んでくれたからと、隠していた銘酒「加茂金秀(かものきんしゅう)」を1杯サービスしてくれました。この「加茂金秀」はその蔵へ出かけないと売ってくれない逸品だそうです。040.gif
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てっ平」の壁には、有名人の色紙がところせましと貼られていました。もし自分の家が広島空港の近くだったら、毎日通いたくなるお店でした。
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広島修学旅行はこれにて完
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by ryott-ryott | 2011-01-23 17:08 | 広島修学旅行 | Comments(4)

いい歳、りょうちゃん、初詣のハシゴで厳島神社参拝ヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 今年の初詣として、宮島の弥山へのお山詣りと大聖院への参詣を行い、そして初詣のハシゴとして世界遺産の厳島神社への参拝を忘れるわけにはいきません。この日も三連休の中日とあって、ものすごい数の参拝客が神社に詰めかけていました。拝殿の前で、ちょうど大鳥居を背景にできる場所があり、参拝客が並んで記念撮影を待っていました。061.gif
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 弥山、大聖院から厳島神社へ到着したのは14時くらいでした。今の時期は夕方が干潮で、お昼過ぎには潮が満ちてきて、夕方歩いていけた鳥居の下には海水が来ていました。
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 初詣のハシゴを済ませた後は、宮島の唯一の商店街・表参道商店街で遅い昼食を食べました。広島と言えば、牡蠣。何軒もの店が豪快に店頭で牡蠣を焼いていました。時計は15時近くを差していましたが、ガイドブックに載っているこぎれいなお店は満席でしかも店の前には長蛇の列。私は人気のない、こ汚い店に入りました。私が入ったこ汚い店も長蛇の列は出来なかったものの、すぐに満席になりました。しかし、こ汚い店の焼き牡蠣はおいしかったです。
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(やしきたかじん/東京)

東京(作詞:及川眠子、作曲:川上明彦、歌:やしきたかじん) 060.gif

あんたとなら
いつ死んでもかまわへん
わすれないで
そんな女いたことを

見上げた空さえも
冷たい色やけど
あたしが本気で惚れたひと
そう生まれた街やから

いとしさも 憎しみも
すべてすべて ぎゅっと抱きしめ
祈るように 今日も灯が
ともる東京

夢だけ見て
生きてるようなあんたやった
いつかあたし
待つことにも慣れてたよ
くすんだ風のなか
肩よせ暮らしたね
誰にも似てへんひとやけど
本物の愛をくれた

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

痛いほど好きなのに
なんでなんで別れたんやろ
いまもまだ 胸の奥
揺れる東京

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

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 大津市にある「義仲寺(ぎちゅうじ)」は、木曽義仲の供養のために建てられた寺で、義仲の墓があります。ここを訪れた松尾芭蕉が「あぁ、私もここで眠りたいものだ」とぽつりとつぶやき、義仲の墓の隣に俳聖松尾芭蕉の墓が建てられました。その後、二つ並んだ墓を見た俳人が詠んだのが冒頭の句です。

元暦(げんりゃく)元年(1184年)1月20日、木曽義仲が亡くなりました。
明智光秀が三日天下と言われましたが、それよりも以前に義仲は六十日天下と言われました。

木曽義仲はもともと源氏の出で、正確には源義仲です。源氏もまた身内同士で勢力争いしており、追手から逃れるために幼い時におばさんに預けられ、木曽山中で育ちます。
山中駆けずり回って育ったためか、身長は六尺豊か(190 cmくらい)の偉丈夫(いじょうふ)になりました。体格は立派なんですが、知性・知識・教養はまるでない、都人が嫌う典型的な山家育ち(やまがそだち)になってしまいました。人としてのルール・マナーを一切身につけていない、政(まつりごと)をどのようにすればいいかも一切学んでいない、欲しいものは何でも力づくで奪う、自慢だったのは精力抜群という乱暴者でした。

そんな義仲に好機が巡ってきます。1181年に平清盛が亡くなり、平家の跡目争いで荒れ放題になっている花の都を何とかしてほしいと、後白河法皇から源氏の御曹司たちに平家追討の令旨(りょうじ)(命令のこと)が出されました。
お墨付きの令旨を受け取った義仲は木曽山中から愛人二人を伴って挙兵し、くりから峠の戦いで平家の大軍を打ち破ります。都では義仲の勢いを恐れた平家が安徳天皇とともに西国へ落ち伸びて、都は空っぽ状態、義仲は都を無血占拠しました。
このことが評価されて、後白河法皇から義仲は従五位下左馬頭(さまのかみ)・越後守(えちごのかみ)を与えられ大出世をしますが、悲しいかな、教養のない義仲にはその重みがわかりません。 「もっとわかりやすいものをくれ」と言ったそうです。後白河法皇も困りはて、「どうせコイツは馬鹿だから長くない、これでもやっておくか」と言い、なんと征夷大将軍に任命してしまい、日の出の勢いでトップに立ってしまいました。義仲は朝日将軍と呼ばれました。

しかし山家育ちの義仲は天下を統治する方法を知りません。都を占拠した5万人の兵に「好きにやれ」という命令を出しました。義仲の軍勢は都で掠奪・強奪・強姦を繰り返し、さすがに法皇もこの山猿どもにあきれ果てて、頼朝に義仲追討の命令を出します。元暦元年(1184年)1月20日に源義経に率いられた頼朝軍が、近江瀬田宇治川で義仲軍と対戦し、義仲軍を簡単に撃ち取りました。

義仲は愛人であった巴御前と敗走します。死を覚悟した義仲は愛人の巴御前に「逃げるように」と言いましたが、巴御前は「巴の最期の闘いを見ていなさい」と馬上から大長刀をふるって、追手の一人の首をはねたという逸話は有名です。
その義仲も大津の浜辺で馬が足を取られて、そこに飛んできた矢に兜を撃ち抜かれて絶命しました。31歳でした。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(五木ひろし/契り)

契り(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、歌:五木ひろし)060.gif

あなたは誰と ちぎりますか
永遠の心を 結びますか

波のうねりが岸にとどく
過去の歌をのせて
激しい想いが 砕ける涙のように
緑は今も みずみずしいか
乙女はあでやかか
人の心は鴎のように
真白だろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

朝の光が海を染める
生きる夢に満ちて
まぶしい願いが きらめくいのちのように
流れは今も 清らかだろうか
子どもはほがらかか
人はいつでも桜のように
ほほえむだろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

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 今回、宿泊した宿、「いろは」です。宿の前も商店街の中も紐が張ってありました。
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 明日はいよいよ宮島とお別れ。宮島に来たもう一つの目的は朝陽を見ることです。1月9日の朝は曇っていて朝陽を見ることができませんでした。明日、宮島を出発する朝、包みが浦にもう一度、朝陽を見に行くことにしました。
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 「いろは」の方から教えてもらったのですが、毎日、朝陽が昇るのを見て育った人と、毎日、夕陽が沈むのを見て育った人の性格はまったく違うそうです。毎日、朝陽が昇るのを見て育った人の典型が、あの坂本竜馬だそうです。常に前向きで、くよくよすることとは無縁で、楽天家。これから朝陽をたくさん見ても、なかなか人のパーソナリティは変わらないと思いますが、楽天家というところだけは合っていそうです。
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 翌朝、5時半に起床。自然に目が覚めました。窓の外を見ると、どうやら雲はなさそうです。仕度をして、6時20分に宿を出て、包みが浦へ向かいました。宿でもらった地図には桟橋から40分と書いてありましたが、前日下見をしていたこともあり、目的地に25分で到着しました。確か日の出は7時10分だったはずなので、まだ30分以上もありました。東の空が赤く染まり、日の出は刻一刻と迫ります。
 そして島の合間から、赤い太陽が昇って来ました。時折、海で漁をする漁船が通り、朝日を背景にした漁の様子を撮ることが出来ました。

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To be continued.
広島修学旅行はまだ続きます。

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by ryott-ryott | 2011-01-20 23:57 | 広島修学旅行 | Comments(0)

いい歳、りょうちゃんの弥山お山初詣りヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 今日の土曜日は久しぶりに大井町湯屋で今年初めての大暴れアクアビクスをやりました。横へ移動するところで、飛び込みながらの動きがあり、近くの年寄りを溺死させるくらいの勢いで思いっきり飛び込んでしまいました。037.gif038.gif037.gif038.gif037.gif
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雲取山打ち上げも2月5日(土)に大井町のイタリアンのお店アレグロピアットで行うことが決定し、浦安湯屋のみなさん、なんでもトライアスロンのみなさんも参加してくださることとなり、現在のところ10名の参加になっています。また富士登山した大井町湯屋のメンバーにも声をかけましたので、もう少し人数が増える可能性があります。
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 また先日、広島平和記念公園を案内して下さったピースボランティアグループの辻さんへお礼のメールを出したところ、辻さんから金閣寺と、旭山神社へ初詣に行った時の初日の出の写真を送っていただきました。そして、辻さんの趣味は山登りであり、今年の目標は4~5つの百名山、特に立山三山と剣岳に今年の夏登山することを計画されているそうです。メールのやりとりをしている間に、辻さんは山登りの上級者であることがわかりました。040.gif
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辻さんが送ってくださった尾瀬・燧ケ岳から見えた富士山の写真。尾瀬から190 km離れた富士山が見えることは滅多にないそうです。10年間ガイドをしている方も尾瀬から富士山を見たのは初めてだったそうです。
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広島修学旅行のつづきです。広島平和記念公園をあとにして、公園内の元安川の船着場から宮島へ世界遺産航路を通って向かいました。片道1900円。平和記念公園から宮島へは約45分の船旅。観音様が横たわっているように見える宮島が視界に入ってきたときには太陽が徐々に焼けてきていました。
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表参道商店街。日本一大きい杓文字。

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(やしきたかじん/東京)

東京(作詞:及川眠子、作曲:川上明彦、歌:やしきたかじん) 060.gif

あんたとなら
いつ死んでもかまわへん
わすれないで
そんな女いたことを

見上げた空さえも
冷たい色やけど
あたしが本気で惚れたひと
そう生まれた街やから

いとしさも 憎しみも
すべてすべて ぎゅっと抱きしめ
祈るように 今日も灯が
ともる東京

夢だけ見て
生きてるようなあんたやった
いつかあたし
待つことにも慣れてたよ
くすんだ風のなか
肩よせ暮らしたね
誰にも似てへんひとやけど
本物の愛をくれた

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

痛いほど好きなのに
なんでなんで別れたんやろ
いまもまだ 胸の奥
揺れる東京

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

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 明治・大正の宗教家、教育家として、世界的に名を知られた内村鑑三が、有名な「不敬事件」を起こしたのは、彼がまだ30歳になったばかりの明治24年(1891年)1月9日のことでした。

 この日、東京の第一高等中学校(旧制一高)では、明治天皇の「教育勅語」の拝戴式が行われていました。校長がうやうやしく勅語を奉読したあと、三方に置かれた勅語に対し、教師と学生がその前で最敬礼をすることになっていました。
 しかし、彼だけは勅語への礼拝を拒否しました。
 彼は天皇をすごく敬愛していましたが、勅語という一片の紙きれに礼拝するのは神への冒瀆、イエスの教えに反すると考えたからでした。自分の信仰と信念を貫く通したわけです。
 しかし、当時の天皇は絶対でした。新聞は一斉に、「天皇に対して無礼だ。不敬だ。非国民だ」と大騒ぎをし、彼も「不敬事件」の責任をとって自ら退職して一件落着となりました。

 彼は上州高崎藩士の子として江戸に生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)に学びました。
“少年よ大志を抱け”で名高いクラーク博士の感化を受けてキリスト教を信奉。のちアメリカに留学してアーマスト大学で神学を学び、帰国して教壇に立ってわずか10ヵ月でした。
 以来、彼は著述に専念、「万朝報」の客員としてキリスト教的文明批判でその筆名をはせました。

 だが、日露戦争を支持する「万朝報」の態度に反発し、客員を辞して非戦平和論を強く主張しました。
 彼は熱心な無教会派のクリスチャンで、生涯を聖書研究に捧げました。
 著書のうち、『余はいかに基督信徒となりし乎』『代表的日本人』は、広く海外で評価された名著です。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(五木ひろし/契り)

契り(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、歌:五木ひろし)060.gif

あなたは誰と ちぎりますか
永遠の心を 結びますか

波のうねりが岸にとどく
過去の歌をのせて
激しい想いが 砕ける涙のように
緑は今も みずみずしいか
乙女はあでやかか
人の心は鴎のように
真白だろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

朝の光が海を染める
生きる夢に満ちて
まぶしい願いが きらめくいのちのように
流れは今も 清らかだろうか
子どもはほがらかか
人はいつでも桜のように
ほほえむだろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

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 広島旅行2日目は宮島の弥山(みせん)標高535 mへ今年初めての山登りをしました。標高535 mと、高尾山よりも少し低いくらいですが、海岸線標高 0 mからの登山であったため、高尾山に比較すると道のりは長かったのではないでしょうか。
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 弥山山頂へ向かうルートは3つあります。1つは紅葉谷公園から向かう紅葉谷コース。このコースは一番なだらかで、山頂まで約90分。紅葉谷公園から山頂近くの獅子岩駅までロープウェイが通ってします。山登りが目的でない人はロープウェイで山頂へ向かいます。2つ目は真言密教のお寺・大聖院の脇から登っていく大聖院コース、山頂までやはり90分ほどかかります。そして3つ目は大元公園から向かう大元コース、山頂までは120分のコースです。私はロープウェイを使う紅葉谷コースなどは選ばず、大元公園の脇から登山道へ入っていく最も長い大元コースを生意気にも選びました。厳島神社の裏手を通り、大願寺の前を通って、海岸線に沿って大元公園まで行きました。037.gif
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今年初めてのお山詣りに向かう年配者の集団。目的地は多分、私と同じでしょう。
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清盛神社。清盛の妻である二位尼が壇ノ浦で幼い安徳天皇を抱いて入水し、その二位尼の遺体が宮島に流れ着いたと言われています。
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宮島水族館は現在改装中。2011年8月にオープン予定。
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あんなに数多くいた山頂へ向かうと思われる人たちは、大元コースには誰ひとりいませんでした。この日は朝から曇りで、時折、雨がちらつき、誰もいない登山道は寂しさを増していました。私が大元公園の登山道に入ったのは午前9時26分でした。
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大元コースの登山道は樹林帯におおわれ、急こう配な道も多くありました。042.gif
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山頂が近づくにつれ、断崖絶壁や奇岩というべき大きな石が姿を現しました。

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朝は雲が厚く垂れこめていましたが、その雲も徐々に切れてきて、山頂近くに到達したときには陽射しが登山道を照らしはじめていました。
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賽ノ河原。大元コースには登山者が誰ひとりいませんでしたが、ここまで来ると厳島神社の前で見かけたと思われるたくさんの登山者の姿を再び見ることが出来ました。
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そして、ついに弥山山頂に到着。午前11時15分でした。登山道入り口から1時間49分。海岸線からは悠に2時間を超えていました。
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今日の大元コースは陽射しもなく、殺風景でしたが、山頂に到着した時にはご褒美とも言える景色が広がっていました。038.gif038.gif038.gif
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下山は真ん中にある大聖院コースを降りて行きました。
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大聖院コースは、大元コースとはちがって、視界が開けており、明かるい登山道でした。景色がよい大聖院コースを知っていれば、ほとんど景色を楽しむことが出来ない大元コースに登山者が集まらないことが理解できました。

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To be continued.
広島修学旅行はまだまだ続きます。

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大聖院コースの終点には真言密教のお寺・大聖院があります。
私はこの大聖院にお詣りし、2011年の初詣としました。
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チベットから来た弥勒菩薩と砂曼荼羅がありました。
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愛染明王は愛のキューピッドなんだそうです。欲望の浄化・災害の除去・縁結びの仏様で、6本の手のうち、2本の手に弓と矢を持っているのは、この矢で相手の心を射落とすそうです。
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仏足跡。
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釈迦如来と十六羅漢。

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by ryott-ryott | 2011-01-16 20:16 | 広島修学旅行 | Comments(0)

いい歳、りょうちゃんの広島平和記念公園・平和学習ヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 今回の広島修学旅行は原爆ドームと広島平和記念資料館での平和学習から始まりました。
1月8日(土)からの3連休は、はじめての広島で、原爆ドームと宮島・厳島神社の2つの世界遺産はもちろんのこと、宮島のパワースポットである弥山(みせん)標高535 mのお山詣り、そして岩国の世界遺産登録を目指している錦帯橋へ行ってきました。

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 広島へは時間を節約するため飛行機で行きました。土曜日の朝は快晴、羽田空港の展望台から、日の出を見ることが出来ました。
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 前回、広島平和記念資料館の報告をしました。今回はそのつづきです。
 
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 事前に予約することで館内と平和記念公園内の解説を、ピースボランティアの方が無料で説明してくださいます。私は3日前に電話で予約し、平和記念公園内の説明をお願いしました。私の案内をしてくれたのは、ピースボランティアグループの辻さん、68歳です。辻さん自身も広島で被爆し、血液の白血球、血小板の数に異常があるという方です。
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 資料館受付前で待ち合わせ。最初予約をとるときは所要]
時間1時間と聞いていましたが、園内には60以上のモニュメントや慰霊碑などがあり、全て周るには2時間あっても足りないとのことでした。約90分を目安にして、主なものを周っていただくことにしました。

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 被爆したアオギリの木。1月の寒い時期は葉は茂っていませんが、毎年、青々と芽吹いているそうです。この木は爆心地から約1 km離れたところで被爆しましたが翌年1946年の春には芽が出て、被爆した広島市民に生きる勇気を与えました。現在ではこのアオギリの木を分苗して、全国の小学校に平和学習の教材として植えられています。一番右側の木は被爆したアオギリの2世です。
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峠三吉(詩人)の詩碑『にんげんをかえせ』。峠三吉は最初、戦争を肯定する考えを持っていましたが、本人が爆心地から約3 kmのところで被爆し、戦争は間違いであるという考えに変わっていきました。この詩碑の下には本人が使用した万年筆など文筆に使用した遺品が納められています。
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嵐の中の母子像。本郷新が設計し、広島市婦人会連合会が建立したと記されています。右手に乳飲み子、左手で子どもを背負い生き抜こうとする母の姿です。
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祈りの泉。平和記念公園は、大阪万博や東京都庁新庁舎の設計に携わった丹下健三が設計しました。原爆投下後に被爆者が水を求めていたことから、園内には水の施設が数多くあります。私が訪れた日は快晴の天気、祈りの泉に虹がかかっていました。
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祈りの泉に上に輝く太陽は、ダイヤモンドのようでした。
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平和の像『若葉』。ここにノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の詩が刻まれています。「まがつびよ ふたたびここへ来るなかれ 平和をいのる人のみぞここは」と書かれています。「まがつび」とは「禍つ日」で、「禍禍(まがまが)しい」という言葉から想像できるように禍と災害をもたらす神のことです。原爆は人類が経験した最も大きな禍でした。
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原爆で被爆し茶色く変色した広島市役所庁舎の石を平和記念公園へ移設しました。
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原爆死没者慰霊碑(広島平和年記念碑)。その延長線上に原爆ドームがあります。
「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」。
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ホノルル市と広島市は姉妹都市であり、ホノルル市から贈られた椰子の木です。平和記念公園内には約6000本の樹木が植えられており、広島県の樹の「楠」も多く植わっています。広島県の花は「夾竹桃(きょうちくとう)」です。
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被爆した在日韓国人のための慰霊碑。韓国では亀に乗って、龍神になるという伝説があり、ご覧のような慰霊碑になっています。この慰霊碑は平和公園の外にありましたが、同じ被爆者の慰霊碑として、1999年に平和公園内へ移されました。
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平和の観音像。公園内に特定の宗教を示す仏像などを設置することは法律で禁止されていますが、平和公園は特例として観音像が建てられています。
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平和の鐘、平和の時計塔の音は、日本の音風景百選に選ばれています。そして毎朝8時15分に時計台から音が流れます。
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動員学徒慰霊塔。

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(やしきたかじん/東京)

東京(作詞:及川眠子、作曲:川上明彦、歌:やしきたかじん) 060.gif

あんたとなら
いつ死んでもかまわへん
わすれないで
そんな女いたことを

見上げた空さえも
冷たい色やけど
あたしが本気で惚れたひと
そう生まれた街やから

いとしさも 憎しみも
すべてすべて ぎゅっと抱きしめ
祈るように 今日も灯が
ともる東京

夢だけ見て
生きてるようなあんたやった
いつかあたし
待つことにも慣れてたよ
くすんだ風のなか
肩よせ暮らしたね
誰にも似てへんひとやけど
本物の愛をくれた

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

痛いほど好きなのに
なんでなんで別れたんやろ
いまもまだ 胸の奥
揺れる東京

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

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 昭和39年10月、東京オリンピックのマラソンで銅メダル(3位)を獲得、久しぶりに日の丸の旗を挙げたのは、福島県須賀川市出身の円谷幸吉選手でした。

 それから4年、メキシコ・オリンピックが開かれる年の正月です。
 東京オリンピックのマラソンで優勝したエチオピアのアベベ選手が、「今年のマラソンの優勝は、日本の円谷になるだろう」と予言したことから、新聞、テレビなど、マスコミはその談話を大きく取り上げ、円谷への期待を盛り上げました。
 しかし、自衛隊体育学校に籍をおく円谷は、思いがけない足と腰の故障で十分練習ができません。日増しに高まる期待感の重圧に耐えかねて、悶々の日々を過ごしていました。そして、ついに正月、故郷に帰った昭和43年の1月8日、枕元に遺書を残して自殺しました。

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
 敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。(中略)
 父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。
 気が安まることもなく、ご苦労、ご心配をお掛けいたし申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。・・・・・・」

 この遺書が公表されたとき、ノーベル賞作家の川端康成は、千万言をもってもつくせぬ哀切であると言って、次のように感想を述べています。
「“美味しゅうございました”という、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きている。そして遺書全文の韻律をなしている。美しく、まことで、かなしいひびきだ。」
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(五木ひろし/契り)

契り(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、歌:五木ひろし)060.gif

あなたは誰と ちぎりますか
永遠の心を 結びますか

波のうねりが岸にとどく
過去の歌をのせて
激しい想いが 砕ける涙のように
緑は今も みずみずしいか
乙女はあでやかか
人の心は鴎のように
真白だろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

朝の光が海を染める
生きる夢に満ちて
まぶしい願いが きらめくいのちのように
流れは今も 清らかだろうか
子どもはほがらかか
人はいつでも桜のように
ほほえむだろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

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本川(ほんかわ)の向こうに見えるのは「本川小学校」。『はだしのゲン』原作者の中沢啓二が通っていた小学校です。原爆投下時、本川小学校には400名の生徒と10人の教員がいました。そして、教員ひとり、生徒ひとりしか助かりませんでした。その時、たった一人生き残った生徒、居森清子さんは現在も横浜でご健在とのことです。
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相生橋はめずらしいT字型のため、原爆投下場所の目印として目標になりました。
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元安橋のところに建つ「大正呉服店」。現在はレストハウスになっています。この大正呉服店の従業員のひとりもたまたま地下室で仕事をしていたため、助かりました。地下室にいたとはいえ、たくさんの放射線を浴びているはずですが、その方は84歳まで生きられました。
そして、この元安橋の延長線上に爆心地があります。島病院の上空、580 mで原爆が炸裂しました。元安橋の左右両脇にある柱の石が爆風で外側にそれぞれ半分ずれたと言います。
爆心地近くのお寺の墓石はひび割れており、原爆の傷が刻まれています。
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ここで辻さんともお別れ。平和記念資料館も平和記念公園もとても90分では周りきれませんでした。ここにはもう一度、来なければならないと思いました。再び来ることを、胸に誓い、広島平和記念公園をあとにしました。

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平和記念公園から船に乗って、第二の目的地、宮島へ向かいました。

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To be continued.
広島修学旅行はまだまだ続きます。

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by ryott-ryott | 2011-01-15 11:39 | 広島修学旅行 | Comments(0)

いい歳、りょうちゃんの広島修学旅行ヽ(^o^)丿

旅行・地域
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 まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは
                                      湯川秀樹
 
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 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、広島は世界ではじめての原子爆弾の被害を受けました。原爆が投下された当時は、広島には約40万人の人がいたと言われています。そして爆心地から半径500 m以内にいた人はほぼ即死、あるいはその日のうちに死亡したと言われています。正確な死亡者数はわかっていませんが、1945年12月までに約14万人の方が亡くなりました。そして、平成22年までに26万9447人の被爆者が亡くなり、今もなお23万人の被爆者手帳を持っている方がいるそうです。被爆者手帳を受けられない人も含めれば、その数は秤知れません。
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私は成人の日を含む3連休に、はじめて広島を訪れました。広島平和祈念資料館は事前にお願いをすれば、資料館内あるいは平和記念公園内の慰霊碑についてピースボランティアの方が解説していただけます。私は公園内の慰霊碑の説明をお願いしました。
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その前に広島空港からバスで広島バスセンターへ移動し、歩いて平和記念公園の入口にある原爆ドームへと向かいました。1月8日(土)は東京もとてもいい天気でしたが、広島も負けないくらいの青空が広がっていました。
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原爆ドームは当初「広島県産業奨励館」という名称であり、広島県内の物産の展示と即売、美術品の展覧会場として、大正4年(1915年)にチェコの建築家ヤン・レツルによって設計・建築されました。
8月6日のあの朝に、「広島県産業奨励館」の南東の方角、約100 m離れた島病院の上空580 mで原子爆弾が炸裂しました。島病院の患者さん、看護婦さんはすべて即死しました。院長は約70 km離れた場所へ往診に出かけていたため助かりました。
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原爆は爆発した1秒後には半径280 mの火の玉となり、音速よりも早い風速毎秒440 mの爆風と、中心温度100万℃、爆心地周辺の地表面が4000 ℃になるほどの熱線が人も建物も全てのものを焼きつくしました。台風の風速毎秒20 mで立っていられないほどであることを考えると、その威力は想像もつきません。1 平方メートル当たりにかかる風圧は19 トンであったと推測されており、衝撃波のような爆風と熱線に曝されながらも、「広島県産業奨励館」があれだけの姿をとどめたのは奇蹟と言われています。
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「広島県産業奨励館」も原爆ドームと呼ばれるようになり、時間とともに老朽化が進み、1960年には解体される運命でした。1歳のときに被爆した、高校1年生の楮山ヒロ子さんが、「8時15分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、14年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が14年たった今でも、いや一生涯焼き残るだろう。・・・あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろうか」と日記に書き遺して、1960年4月5日に急性白血病で亡くなりました。
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ヒロ子さんの日記に心を打たれた「広島折り鶴の会」が原爆ドームを保存するため
運動を開始します。追悼の会でヒロ子さんの日記が朗読され、多くの署名を集め、市民の声に動かされた広島市議会が保存要望の決議を出しました。
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国内外からの募金により、3度にわたる補修工事を行い、平成8年(1996年)、原爆ドームは世界遺産に登録されました。たったひとりの少女の平和に対する想いが、人々の心を動かし、原爆ドームは今も全世界へ平和を訴えかけています。

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(やしきたかじん/東京)

東京(作詞:及川眠子、作曲:川上明彦、歌:やしきたかじん) 060.gif

あんたとなら
いつ死んでもかまわへん
わすれないで
そんな女いたことを

見上げた空さえも
冷たい色やけど
あたしが本気で惚れたひと
そう生まれた街やから

いとしさも 憎しみも
すべてすべて ぎゅっと抱きしめ
祈るように 今日も灯が
ともる東京

夢だけ見て
生きてるようなあんたやった
いつかあたし
待つことにも慣れてたよ
くすんだ風のなか
肩よせ暮らしたね
誰にも似てへんひとやけど
本物の愛をくれた

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

痛いほど好きなのに
なんでなんで別れたんやろ
いまもまだ 胸の奥
揺れる東京

悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

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 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
快晴の広島市中央部上空から、「ピカ」、「ドン」という一瞬の光と音とともに、世界で最初の原子爆弾が投下されました。

この原爆の熱と爆風と放射能で、人口40万人の広島市民のうち、23万人から27万人が即死もしくは5年以内に生命を失いました。
 爆心地に近い、原爆ドームの残骸が見える広島平和公園では、毎年この日、この時刻に、慰霊祭、平和の式典が催されます。

 この広島の原爆で亡くなった演劇人のひとりが新劇俳優の丸山定夫でした。
 どんな人だったかは、彼の友人たちが彼を偲んで鎌倉妙法寺境内に建てられた記念碑の碑文を読むとわかります。

「・・・・独異の性格俳優として、『新劇の団十郎』とまでいわれ、新劇史上に不朽の名を止めた。
 人間としても、よく読み、よく歌い、よく恋し、友を愛し、人の世話をみ、純情で柔軟な心情をもって、知る人すべてから愛された。
 が、昭和二十年八月六日、広島市堀川町九十番地『移動演劇さくら隊』の宿舎で、アメリカ軍投下の原爆に遭い、十日間の苦闘の末、十六日厳島存光寺の庫里で、四十三年の命を閉じた。
 その後、埋められた場所さえ知れずにいたのを、最近この地に朽ちかけた墓標が発見され、友人知人たちの協力で、新しく記念碑が建てられた。
 知友代表としてその由来を記す。                    藤森茂吉」

劇団の重鎮として活躍していた滝沢修、宇野重吉、杉村春子、山本安英と仕事を共にしており、生きていたら、新劇が違っていたかもしれないとの声が聞かれます。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(五木ひろし/契り)

契り(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、歌:五木ひろし)060.gif

あなたは誰と ちぎりますか
永遠の心を 結びますか

波のうねりが岸にとどく
過去の歌をのせて
激しい想いが 砕ける涙のように
緑は今も みずみずしいか
乙女はあでやかか
人の心は鴎のように
真白だろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

朝の光が海を染める
生きる夢に満ちて
まぶしい願いが きらめくいのちのように
流れは今も 清らかだろうか
子どもはほがらかか
人はいつでも桜のように
ほほえむだろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに

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 私が広島平和記念資料館のピースボランティアの方に説明をお願いのは午後1時からでした。それまで1時間半ほど時間があったので、まずは平和祈念資料館の中から周りました。
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 広島に原爆が落とされる前の町の様子。
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 原爆は17の都市に投下されることが検討されていました。そして、もうひとつ京都も対象として考えられていたようですが、「日本の文化の発祥地」であり、戦後の復興を考えると京都は残すべきであるとの考えがあったようです。そして、日本へ原爆を投下する目的は戦争終結であり、日本の文化の象徴でもある京都に原爆を投下すれば、おそらく日本は降伏しないだろうという意見もあり京都は外されたそうです。
 最終的に、新潟、広島、長崎、小倉の4都市に絞られ、5月28日に原爆投下の影響を正確に観測するため、この4都市への空襲は禁止されました。8月6日、小倉の天気予報は曇りであったため、晴れの予報の広島の命運が決まってしまいました。
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原爆投下直後の原爆ドーム。
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原爆ドームの模型のそばに、中日新聞のカメラマンであった松重美人さんの写真がありました。広島市千田町3丁目御幸橋西詰。松重さんの著書「なみだのファインダー」にはその時の辛さが次のように綴られています。
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『 私の目の前に見るこの光景に、カメラを向けることは、耐えがたい苦痛でありました。しかし、現実に見るこの地獄絵図を後世に残し伝えるには、写真以外にはないのです。ましてや、この場でカメラを持ち、その特権を与えられているのは自分ひとりなのです。それでも、カメラに手をかけましたが、どうしてもシャッターが切れないのです。

 私は、ガラスの破片で、顔から胸にかけ、血で真っ赤になってしまったが、自分の傷など、今、カメラを向けている被写体の人たちの傷とは比べものになりません。生死の境に苦しむ多くの眼差が、私に集中しています。
「助けて」
「水をください」
と哀願するかすかな声。
 シャッターを切ろうと思い、気は焦っても指は動かず、写せないのです。
 このように苦しんでいる人々を果たして写すべきかどうか。長い時間、ためらいました。不思議と、どこからとなく「この惨状を写真にして、多くの人に伝えてほしい」と呼びかけられているように思えてきました。それでもまだ、
 「撮ろうか、撮るまいか」
と迷いました。

 そうした幻覚のうちに私の目は、ようやくカメラのファインダーに寄りました。
 「火傷をしているみなさん、そこに横たわっている罹災者のみなさん。いま私はみなさんの死の苦しみにあるその姿を写真に撮りますが許してください」
と心でお詫びしながらシャッターを切る姿勢に入り、
「よし、撮ろう」
と、御幸橋西詰の電車道路中央千田町寄りまできて、ためらう間断のときをふりきり、1枚のシャッターを切りました。この1枚目のシャッターを切るまでに30分はためらいました。
1枚シャッターを切ると、不思議に心が落ち着き、近づいて撮ろうと思うようになりました。

 10歩(5、6メートル)ほど近づき2枚目を撮ろうと、ファインダーを覗いてみるとあまりにもむごく、涙でファインダーが曇りました。
 死ぬか生きるかの人を、追い立てられる思いで切った2枚目のシャッタ―は、あふれ出る涙の証人の姿です。・・・』

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熱線で焼けてしまった瓦、表面が沸騰した跡が残っています。
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熱で溶けてしまった瓦。
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石に残った人の影。
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真っ黒に焼け焦げたお弁当。
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原爆の惨状を示すジオラマ。
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広島からよそへ疎開していた多くの子どもたちが、原爆によって家族を失い、孤児になりました。

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1時間半では館内の資料をすべて見るには時間が足りません。最後は駆け足になってしまいました。この後は、平和公園内の慰霊碑について、ピースボランティアの方に説明いただきましたが、屋外の慰霊碑も90分では全て見ることはできません。その続きは、また次回報告します。

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被爆者たちが描いた原爆の惨状を伝える絵。
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by ryott-ryott | 2011-01-12 01:16 | 広島修学旅行 | Comments(0)