カテゴリ:雲仙・島原・長崎( 4 )

いい歳、りょうちゃん、長崎祈りの鐘をつく(^o^)丿

旅行・地域
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雲仙・島原・長崎の旅も最終日。最終日も雨模様でしたが、徐徐に雨もあがって来ました。長崎へ来たからには長崎原爆資料館、平和公園を訪れないわけにはいきません。
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 今日も雲仙観光ホテルの自動車で雲仙バスターミナルまで送ってもらいました。運転してくれたのは、いつもホテルの玄関で山高帽をかぶって、宿泊客のお出迎いをされている方でした。私が今日は山高帽をかぶっていないのですかと声をかけると、山高帽とあのスーツは大変に重くて、たくさん動き回れないのだとおっしゃっていました。山高帽のおじさんとお別れし、私は9:00ちょうど雲仙発長崎駅前行きのバスに乗車しました。雲仙から長崎までのバス料金は1900円で、約100分の道のりです。
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 長崎駅前から赤迫行き路面電車に乗って約15分、浜口町駅で下車しました。長崎駅の路面電車はどこまで行っても料金が大人120円、子ども60円です。ちょっとした坂道を上がったところに長崎原爆資料館がありました。入口にはたくさんの折り鶴が吊り下げられており、ボランティアの方が座っていらっしゃいました。私はすぐにボランティアの方に資料館の案内をお願いしました。
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 長崎に原子爆弾が落とされたことは当然ながら知っていましたが、広島のように映像や写真を目にすることは今までありませんでした。すべてはじめて見る写真でした。長崎は広島に次いで2番目に爆弾が落とされたため、広島と同じ新型爆弾が長崎にも落とされたという情報から、原爆が投下された長崎市へ何人もの報道関係者が入り、写真を撮って記録を残していました。長崎の原爆の惨状を伝える写真は広島より多いと言われています。
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 原子爆弾はアメリカを中心として、ドイツへ落とすために莫大な費用をつぎ込み開発が続けられていましたが、ドイツが1945年5月に早々と降伏してしまったため、どうしても原子爆弾の威力を確かめたいと思った連中は、まだ戦争を続けている日本へ原子爆弾を落とすことにしました。アメリカにとって原子爆弾は日本との戦争を終わらせるためだけのものではなく、原に爆弾の威力についてデータを取得するための実験だったのです。そのために長崎では7万5000人の命が瞬時に奪われ、ほぼ同数の人が負傷し、やはり命を落としていきました。
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 資料館の中には原子爆弾の模型の他、街の惨状、倒壊した建物や真っ黒に焦げた遺体などを写した写真が何枚も展示されていました。展示されている写真はモノクロですが、その惨状を目の当たりにした体験者の話では、遺体からは内臓が飛び出し、血で真っ赤に染まった遺体も多く、地獄絵図そのものだったと言います。そして、ときどきカラーの写真もありました。カラー写真はアメリカ軍が撮った写真であり、ボランティアの方の説明では、アメリカ軍は被爆した人の写真を撮影していたが、決して治療はしてくれなかったそうです。転がっている遺体やひどい火傷を負っている人の写真を、記録を取るように撮影し、どのような経緯で息絶えて行くかをまるでモルモットの実験をしているように観察して、見殺しにしたと言います。ひどい傷を負いながらも、運よく命を取り留めた人も後遺症に苦しみ、顔が変わってしまうほどの火傷のため、その後、人前に出ることもはばかられ、差別を受けることもあったそうです。
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刑務所があった場所。400名が亡くなりました。
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浦上天主堂。
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永井隆博士の家。
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永井先生の家の前には隠れキリシタンの帳方の屋敷がありました。帳方とは隠れキリシタンの頭のことです。その他、洗礼を授けるものを「水方」、指令を伝令するものを「聞き役」と呼んでいました。永井先生の奥さんは7代目帳方の吉蔵の子孫にあたります。
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この噴水は平和の象徴、ハトが羽ばたく様子をイメージしています。
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(第75回あずみ野うたごえ喫茶/長崎の鐘)

長崎の鐘(作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、歌:藤山一郎)


こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめはげまし 長崎の
 あゝ 長崎の鐘がなる

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

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(平原綾香/ジュピター)
ジュピター(作詞:吉元由美、作曲:G.Holst、歌:平原綾香)


Everyday I listen to my heart
ひとりじゃない
深い胸の奥で つながっている
果てしない時を越えて 輝く星が
出会えた奇跡 教えてくれる

Everyday I listen to my heart
ひとりじゃない
この宇宙の御胸に 抱かれて

私のこの両手で 何ができるの
痛みに触れさせて そっと目を閉じて
夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じてあげられないこと

愛を学ぶため 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない

心の静寂に 耳を澄まして

私を呼んだなら どこへでも行くわ
あなたのその涙 私のものに

今は自分を 抱きしめて
命のぬくもり 感じて

私たちは誰も ひとりじゃない
ありのままでずっと 愛されている
望むように生きて 輝く未来を
いつまでも歌うわ あなたのために 

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昭和20年8月9日、午前11時20分、広島に続いて2回目の原爆が長崎市に落ちました。
市街地の3分の1は焼土と化し、被爆死した人は、あわせて12万人を越えました。
現在、爆心地であった浦上天主堂一帯は、「長崎平和公園」として保存され、そこに長崎県出身の彫刻家として知られる北村西望作の巨大な平和記念像が建てられています。

この原爆の悲惨さ、憤りを、文学作品として発表した作家はたくさんいますが、被爆者の一人として書かれたものが、ベスト・セラーとして広く読みつがれています。
それは長崎医大助教授、敬虔なクリスチャンでもあった永井隆博士の書かれた3冊です。
『ロザリオの鎖』『この子を残して』『長崎の鐘』と、出版されたのはこの3冊でしたが、『長崎の鐘』は、昭和24年、新藤兼人の脚本・演出で松竹から映画化され、その主題歌(サトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎唄)は大ヒットしました。今でもナツメロにはよく登場します。

  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ
  うねりの波の 人の世に
  はかなく生きる 野の花よ
   なぐさめはげまし 長崎の
   あゝ長崎の 鐘がなる・・・

平和公園からほど近いところに、永井博士のお宅があり、これも保存されています。
天皇陛下も長崎で巡幸のとき見舞われ、ローマ法王も特使を派遣されましたが、昭和26年5月1日、二人の子どもを残して亡くなりました。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(小柳ルミ子/星の砂)

星の砂(作詞:関口宏、作曲:出門英、歌:小柳ルミ子) 060.gif


二度と出来ない恋を捨てあなた遠く
離ればなれになってゆくの 今つらいわ

嫁ぐ日岬にひとりたたずみ君住む島に
別れを告げる
凪いで凪いでまぶしいサンゴの島が
にじんで落ちて 星の砂

過ぎし日 二人は海辺に遊び
変わらぬ愛を 夕陽に祈る
いつかいつか 二人は運命にさかれ
私は遠く 石垣へ

髪にかざした ブーゲンビリア
そえぬ運命に赤く咲く
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい 星の砂

ルルル・・・・・ルルル・・・・・
ルルルル・・・・・

風よ吹け 波よ打て
それであなたにつぐなえるならば
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい この想い
届けてほしい この想い

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 崎と言えば、キリスト教、鎖国、そして出島の誕生という歴史の流れが頭に浮かびます。織田信長が生きていたころはキリスト教の布教はむしろ推進されていました。その信長が1582年(天正10年)に明智光秀の謀反によって本能寺の変で死んでしまうと、キリスト教に対する風当たりは一変します。このころキリスト教信者は約14万人いたと言われています。そして、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は4人の使節団を宣教師の勧めでローマ教皇のもとに派遣しています。諸外国との貿易も盛んに行われ、大きな利益もあげていました。
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 信長の死後、天下を治めた豊臣秀吉はこれから作り上げて行く国家体制にとって、キリスト教の教えは妨げになると考えるようになりました。またキリシタン大名が海外との貿易により莫大な利益を上げ、信者も日に日に増えて行くことは秀吉にとっては脅威であったに違いありません。1587年(天正15年)、秀吉は突如バテレン追放令を出し、宣教師たちを国外追放しました。しかし、南蛮貿易は保護し、ポルトガル船や商人の来航は従来通り認めました。
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 時代は流れて、徳川の江戸幕府もキリスト教徒に対して例外ではありませんでした。幕府も当初は秀吉同様にキリスト教は禁じるが貿易は推奨するという政策を取っていました。しかしながら、貿易を認めれば禁じているキリスト教を完全に抑え込むことはできません。最初は黙認を続けていましたが、キリスト教の布教によるスペインやポルトガルの侵略に対する脅威と、数多くにキリスト教徒の団結を恐れ、1612年(慶長17年)にキリスト教の禁教令を出します。それでも従わない高山右近ら300人をマカオへ国外追放し、長崎で宣教師と信徒合わせて55名を処刑しました。
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 しかし、激しい迫害に屈することなく、潜伏して信仰を続ける者がいました。それが隠れキリシタンです。
 キリスト教徒を根絶やしにすること幕府に決意させる事件が起こります。1637年、長引く飢饉にもかかわらず、島原城主松倉重政や天草領主寺澤勝彦ではなく広高が領民に過酷な年貢を取り立て、徹底したキリスト教の弾圧に耐えかねた農民たちが一揆を起こします。これが島原の乱です。当時16歳の天草四郎時貞をリーダーに3万人が原城に立てこもりました。幕府は最初は板倉重昌を派遣しましたが鎮圧に失敗、その後九州諸大名に12万の兵力を動員し、原城を兵糧攻めにし、オランダ船からの砲撃も要請し、ようやく鎮圧しました。その後、イエス、マリア像を彫った踏絵を踏ませる絵踏を行ったことは有名です。

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 このような幕府のキリスト教に対する政策から海外渡航や貿易も制限が加わるようになりました。そして幕府のみが貿易による利益を独占するため、厳重な統制のもとに管理し始めます。まず1624年にスペインの来航を禁止しました。イギリスも平戸にあった商館を閉鎖しました。1635年、さらに日本人の海外渡航を全面禁止にし、その当時、海外にいた日本人の帰国も禁止にしました。1637年の島原の乱の影響で、1639年ポルトガル船の来航を禁止し、平戸にあったオランダの商館を1641年に長崎の出島に移し、長崎奉行の監視下に置きました。こうして、日本は鎖国へと突入して行きます。
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 その長崎の出島跡に行きました。出島はその当時3方を海に囲まれていましたが、現在は埋め立て地の中にあります。
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敷地の端に植わっている木は、ナンヨウスギと言って日本には存在しない植物だそうです。当時のオランダ人によって運ばれたと言われています。
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出島へやってきたオランダ人は、1回は将軍へ謁見するために江戸へ赴いたそうです。その時は、参勤交代の大名行列さながらに籠に乗って江戸に向かいました。その籠の模型ですが、前方に黒い箱が飛び出ています。これはオランダ人は胡坐や正座が苦手だったため、足が伸ばせるように籠がつくられていました。
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 出島へやってきたオランダ人は特別な用事がない限り、出島から日本本土へ踏み込むことは禁じられていました。そして、日本人も出島への出入りを禁じられていました。ただし、遊女と乞食は出入りを許されていました。オランダ人は自分の妻や子どもを連れて、日本の出島にやって来ますが、妻や子どもは日本への入国を許可されず、無情にもオランダへ返されることがほとんどだったそうです。妻を返されてしまったオランダ人は長崎丸山の遊女を出島へ呼んでいました。

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最後は大浦天主堂を見て、グラバー邸へ行きました。

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雲仙・島原・長崎の旅、これにてお終い。

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by ryott-ryott | 2011-04-09 12:09 | 雲仙・島原・長崎 | Comments(0)

いい歳、りょうちゃん、難攻不落の熊本城へ行く(^o^)丿

旅行・地域
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先週の体調不良は急性の胃炎だったようです。かかりつけのお医者さんへ行く途中、3月31日で統廃合されることになった大間窪小学校には工事業者が入り、これからいよいよ解体が始まるようです。018.gif
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校庭の桜が徐々に咲き始めていました。
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地震が発生してから3週間、ようやく大井町湯屋も平常営業に戻ったようです。しかし、土曜日のいつもの枠からは大暴れアクアはなくなり、30分のミットシェイプに変更になっていました。ミットシェイプは首まで水につかって、筋肉トレーニング系のエクセサイズが主流であり、私たちが好む水を巻き上げる派手なパフォーマンスはありませんでした。それでもかつては大井町湯屋でのミットシェイプも大暴れアクア以上の運動量を要するエクセサイズも行われていたこともあって、皆さんは大暴れ系を期待し、たくさんの方が参加しましたが、見事にその期待は裏切られてしまいました。
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まあ、しばらく土曜日は写真撮影の旅になるため、アクアともしばらくお別れです。来週9日は日の出山&御岳山&つるつる温泉、16日は岩櫃山、23日は天覧山(倉持さんの情報では中止になる可能性が濃厚)、30日は連休2日目で私は遠く屋久島へ宮之浦岳に登る予定です。
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 そして、きのうの土曜日は当初の予定通り、アレグロピアットへ行きました。残念ながら浦安湯屋のメンバーの参加はありませんでしたが、大井町湯屋の大先輩方が参加し、11日の地震発生から今日までどのように過ごしてきたか、東京大空襲に比べれば今回の地震などたいしたことはないなどのお話を聞くことができました。もちろん、私が飛びぬけての最年少です。
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アレグロピアットの裏には「金魚湯」という由緒正しい銭湯があります。煙突から煙が出ていました。
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サラダ
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前菜
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生ハムのペンネ
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スペアリブ
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ピザ
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ラザニア
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リンゴのプディング
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最後は記念撮影、アレグロピアットのご主人は大井町湯屋仲間のよしこさんの高校の後輩だそうです。よしこさんがいつも奥様をあごで使っているので、奥様の方が後輩だと思っていました。ご主人からは再度、月1回の食べ飲み会をやることを、念を押されました。

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そして帰り道、じゃんけんぽんの春さんから歌詠み会のお誘いがあり、バーディーさんへ向かいました。歌詠み会とはカラオケのことです。024.gif
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(平原綾香/ジュピター)
ジュピター(作詞:吉元由美、作曲:G.Holst、歌:平原綾香)


Everyday I listen to my heart
ひとりじゃない
深い胸の奥で つながっている
果てしない時を越えて 輝く星が
出会えた奇跡 教えてくれる

Everyday I listen to my heart
ひとりじゃない
この宇宙の御胸に 抱かれて

私のこの両手で 何ができるの
痛みに触れさせて そっと目を閉じて
夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じてあげられないこと

愛を学ぶため 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない

心の静寂に 耳を澄まして

私を呼んだなら どこへでも行くわ
あなたのその涙 私のものに

今は自分を 抱きしめて
命のぬくもり 感じて

私たちは誰も ひとりじゃない
ありのままでずっと 愛されている
望むように生きて 輝く未来を
いつまでも歌うわ あなたのために 

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高村光太郎が第二詩集「智恵子抄」を出したのは、智恵子が死んで3年目、太平洋戦争がはじまる直前の昭和16年8月でした。

日本でも数多くの詩集は出されていますが、「智恵子抄」ぐらい、広く人々に読み継がれて、哀惜と感動を与えている詩集は他にないと言われています。人によっては、狂気の妻にあれほど献身的に愛が捧げられるものであろうか、詩に作意や誇張があるのではないかとの疑念を抱く人もいるようです。それは、光太郎を知らない人の言うことでした。
光太郎は晩年、智恵子夫人の狂気の時代を、次のように回想しています。

「自分にとってあの7年間は、地獄、いや煉獄とも言ってよい名状しがたい苦悩の連続だった。だが、その中で骨身を削りながら尽くせるだけのことは尽くした。人は今、私がひとりぽっちでいるのを淋しいと思っているだろうが、ぼくは今でも時々智恵子と話しているので淋しくない。智恵子を思い出しているのではなく、智恵子はぼくの体の中にいるんだよ。」(奥平英雄「晩年の高村光太郎」より)

 光太郎は終戦後に疎開していた岩手県花巻郊外、太田村山口の小屋で農耕自炊の生活に入りました。戦時中戦意高揚の詩を書いたことを恥ずかしく思い、ここで「暗愚小伝」の詩20編を書きました。昭和27年、青森県から依頼された、十和田湖国立公園顕彰記念碑の裸婦像の制作を引き受けて、7年ぶりに東京のアトリエに戻りました。現在、この裸婦像は十和田湖畔に建っています。

光太郎はこの製作が終わると再び岩手県の山小屋に帰る予定でしたが、その志を果たさず、昭和31年(1956年)4月2日、73歳で亡くなりました。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(小柳ルミ子/星の砂)

星の砂(作詞:関口宏、作曲:出門英、歌:小柳ルミ子) 060.gif


二度と出来ない恋を捨てあなた遠く
離ればなれになってゆくの 今つらいわ

嫁ぐ日岬にひとりたたずみ君住む島に
別れを告げる
凪いで凪いでまぶしいサンゴの島が
にじんで落ちて 星の砂

過ぎし日 二人は海辺に遊び
変わらぬ愛を 夕陽に祈る
いつかいつか 二人は運命にさかれ
私は遠く 石垣へ

髪にかざした ブーゲンビリア
そえぬ運命に赤く咲く
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい 星の砂

ルルル・・・・・ルルル・・・・・
ルルルル・・・・・

風よ吹け 波よ打て
それであなたにつぐなえるならば
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい この想い
届けてほしい この想い

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さて、随分と寄り道をしましたが雲仙・島原・長崎の旅の続きです。旅の2日目は濃霧のため、雲仙普賢岳登山をあきらめて、島原巡りをしました。やはり浦安湯屋のプロ登山家メンバーは濃霧ぐらいでは登山を取りやめることはないようです。038.gif
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 予定が1日ずれてしまったため、3日目はフェリーに乗って島原から熊本へ行くことにしました。3日目は濃霧に加えて、ついに雨が降り出しました。ホテルの人に雲仙バスターミナルまで送ってもらい、そこから島原港まで行き、熊本港行きのフェリーに乗りました。熊本港までは約30分、そして熊本市街までさらのバスで30分。時間がたっぷりあれば、いろいろと周りたいところですが、帰りの船に時間を考えて、熊本城へ行きました。熊本は、雲仙や島原ほど雨は降っていませんでした。057.gif
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 熊本城は築城から400年以上、難攻不落の城として加藤清正が7年の歳月をかけて築き上げます。加藤清正はもともと豊臣秀吉とは親戚の関係にあると言われており、秀吉には秀吉に対しては並々ならぬ忠誠心を持っていました。しかし秀吉の死後、石田三成とはそりが合わず、関ヶ原で東軍に味方します。それでも豊臣家に対する忠誠心が消えうせたわけではなく、秀吉の死後、秀頼の身を案じて、二条城で家康に対して秀頼との会見を実現させます。しかし、清正はその会見後に熊本へ帰る船の中で発病し、帰らぬ人となりました。加藤清正の死後から4年、慶長20年(1615年)、加藤清正の想いも空しく、大坂夏の陣で秀頼は大坂城とともに散りました。
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 その後、加藤家は改易(かいえき;改易とは御家が断絶することです)となり、細川家が替わって熊本城へ入り、明治の廃藩置県(1870年)まで熊本藩を細川家が治めることになりました。家自体は今も続いており、総理大臣にもなった細川護煕はこの細川家の末裔であることは記憶に新しいところでしょう。

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To be continued.
長崎の旅へとつづきます。

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by ryott-ryott | 2011-04-03 14:13 | 雲仙・島原・長崎 | Comments(0)

大暴れアクア最終話(^o^)丿 

旅行・地域
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今日3月26日土曜日、地震が起こってからはじめて大井町湯屋へ行きました。前回は地震の前日であったため、およそ2週間ぶりでした。この日も大井町湯屋は20時までの短縮営業。今月いっぱいは20時までの短縮営業を続けるようです。館内照明を落として、薄暗い中での久しぶりのエクセサイズです。
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そして、最後の大暴れアクアビクスをやって来ました。担当インストラクターの方が4月から本社勤務になり、毎週土曜日の3時15分からの枠は4月からは30分間のミットシェイプになってしまいます。いつも一緒に大暴れアクアをやっているよしこさんが今日は用事があり、ご不在でした。大暴れアクアではいつもよしこさんとよしこさんのお友達が私を挟むようにアクアをやり、いつも性質(たち)の悪いババァどもに気を使っているようです。防波堤のよしこさんがいなかったため、たちの悪いババァに思いっきり水がかかってしまいました。
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 本社勤務になるインストラクターさんにとっても、レッスンを担当するのが最後であり、かなりエキサイトして、最後の大暴れアクアではかなり水しぶきを巻き上げることができました。いつもこのようにやってくれていたら、大暴れアクアのファンはかなり増えていたと思います。そして、恐ろしい表情をしているババァの顔を見て、いくら水をぶちかけても、たちの悪いババァどもの汚れきった心をきれいに洗い流すことはできないことがわかりました。4月から他の時間帯に殴り込みに行きますか。
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 さて雲仙・島原・長崎の旅の続きです。2日目はいよいよ雲仙普賢岳に登ることにしていました。3月19日土曜日、雲仙はたしかに雨は降っていませんでしたが、窓の外はどんよりとした鈍色の曇り空、しかも霧も出て、きのうは見えていた雲仙普賢岳の姿を見ることはできませんでした。031.gif
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 取りあえずは登山口のある「仁田峠」までは行ってみようと思い、雲仙の山の情報館前から出ている「仁田峠」行きの乗合タクシー(片道430円)に乗って、仁田峠へ向かいました。乗合タクシーはマイクロバスで、私の他に仁田峠の売店に用事があるという地元の男性ひとりが乗っていました。雲仙温泉街の標高は約700 mであり、仁田峠(標高1100 m)までは約20分、しかし峠に近づいて行くにつれて、霧も濃くなり、仁田峠は真白な霧に覆われて、何も見えない状態でした。
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乗合タクシーの運転手さん「今日は止めた方がいいですよ。」
いい歳、りょうちゃん    「折角なので、行こうと思います。」
乗合タクシーの運転手さん「この濃霧だと通行止めになって、帰りのタクシーも
                 迎えに来れないよ。その時はひとりで温泉街まで
                 下ってもらうしかないね。」

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タクシーの運転手さんはあと1時間ここにいて、温泉街へ戻るからと言ってくれました。それまでによく考えて判断してくださいと言いたかったのでしょう。仁田峠の展望台から下を見ても上を見てもまったく何も見えません。
また仁田峠から妙見岳の下までロープウェイが通っており、ロープウェイのところの人にも「登るのは止めた方がいい。」と言われました。「この濃霧では登ってももちろん何も見えないし、普賢岳の頂上直下はかなり急こう配だから、晴れていれば問題ないが、この霧の中はじめて普賢岳を登るのは危ない。」と登ろうとしている私を止めてくれました。こんな時、浦安湯屋のプロの登山家たちはどんな判断をするのかと考えながらも、普賢岳登山を諦めることにしました。
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 時計を見ると、乗合タクシーが発車するまであと30分あったため、停車しているタクシーのところまで戻り、温泉街へ降りました。今日一日は妙見岳、国見岳、普賢岳を周って、最後におまけに野岳にも行こうと思っていましたが、予定が白紙になってしまい、翌日に考えていた観光タクシーによる島原めぐりをすることにしました。
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(石川さゆり/火の国へ)

火の国へ(作詞:阿久悠、作曲:三木たかし、歌:石川さゆり)

あなたなしでも生きられる
そんな女になりたいと
熱い思いの火の国へ
生まれ変わりに参ります
東京駅から西へ向け

泣かぬ女の
泣かぬ女のひとり旅

雨の降る日はしのび逢い
それが似合いの恋なんて
甘く見えても真実は
若い私をやせさせた
三年三月は重過ぎて

とても背負って
とても背負って行けません

肥後の火の山阿蘇の山
私むかえてくれる山
明日はあなたの想い出も
すべて燃やしてしまいます
未練が眠りをさまたげる

そして夜汽車は
そして夜汽車は火の国へ

そして夜汽車は
そして夜汽車は火の国へ

 
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大化の改新(643年)のクーデター成功の後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、叔父の軽皇子を孝徳天皇として立て、天皇没するや母の皇極上皇を重祚(じゅうそ:再び即位すること)させて斉明天皇とし、その斉明帝が亡くなると“称制(しょうせい)”(即位しないで天皇の代行をする)を名のって皇太子のまま、通算15年間、政治の実権を握って来ました。
 革新政治を進めるためには、皇太子のほうが身軽でやりやすかったためだと思います。

 しかし、百済救援のため朝鮮半島に派兵した2万5000の日本軍は、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に惨敗し、撤退して帰国して来ました。
 中大兄皇子は、そのまま唐・新羅の連合軍が日本に攻めてくると考えたのでしょう。奈良盆地の奥深い飛鳥では、戦略的に不利だと判断し、称制6年(664年)3月19日、近江の大津に遷都することを宣しました。
 遷都が終わった668年、ようやく称制を廃して、自らも即位して天智天皇となり、弟の大海人(おおあま)皇子を皇太弟に立てました。

 この大津遷都は、大化改新以来わずか20年の間に、中大兄皇子が、都を飛鳥から難波へ、難波から飛鳥へ、さらに筑紫へ、また元の飛鳥へ、そしてこんどは近江と、めまぐるしく遷都を繰り返すので、貴族・群臣はもとより、民百姓・人夫にいたるまで猛反対であったと、『日本書紀』は伝えています。

 この不評の大津京はやはり短命な都でした。
 皇位継承をめぐる実子大友皇子と、皇太弟大海人皇子との争い“壬申(じんしん)の乱”が起こり、大友皇子が即位した弘文天皇は殺され、大海人皇子が天武天皇となって、古京飛鳥にまた都を遷して幕となりました。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(小柳ルミ子/星の砂)

星の砂(作詞:関口宏、作曲:出門英、歌:小柳ルミ子) 060.gif


二度と出来ない恋を捨てあなた遠く
離ればなれになってゆくの 今つらいわ

嫁ぐ日岬にひとりたたずみ君住む島に
別れを告げる
凪いで凪いでまぶしいサンゴの島が
にじんで落ちて 星の砂

過ぎし日 二人は海辺に遊び
変わらぬ愛を 夕陽に祈る
いつかいつか 二人は運命にさかれ
私は遠く 石垣へ

髪にかざした ブーゲンビリア
そえぬ運命に赤く咲く
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい 星の砂

ルルル・・・・・ルルル・・・・・
ルルルル・・・・・

風よ吹け 波よ打て
それであなたにつぐなえるならば
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい この想い
届けてほしい この想い

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 仁田峠では霧で何も見えなかったのに、標高を下って温泉街まで戻って来ると、霧はほとんどなく、しかも海に近い島原では陽射しもありました。山と海ではこんなにも天候が違うものなのかということを実感しました。058.gif
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 それは1990年(平成2年)11月に普賢岳山頂付近から立ち昇った2本の噴煙から始まりました。それまでには橘湾周辺で地震が多発していたと言います。
 12月に噴火した時は赤々とした溶岩が火口から流れ落ち、島原の人たちは花火を見る感覚で珍しがって見に行ったそうです。しかし、湧きあがる溶岩は粘度が高く、溶岩ドームとして成長して行きます。そして、1991年(平成3年)6月3日、成長し続けた溶岩ドームはついに崩落し、火砕流となって普賢岳の斜面を時速100 kmという猛スピードで焼きつくしながら流れ落ちて行きました。43名が犠牲になり、そのうち20名がマスコミ関係者でした。成長して行く溶岩ドームの崩落の映像を、最良のポジションで撮りたいという加熱した報道合戦がありました。そして、この43名の中にはフランスの火山学者クラフト夫妻も含まれており、報道関係者はクラフト夫妻のそばにいれば安全であるという間違った考えを持っていたようです。
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火砕流で焼けた大野木葉小学校
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 今年は奇(く)しくもその大火砕流から20年、NHKが普賢岳の噴火と火砕流で命を落としたクラフト夫妻の足取りを再現する番組を昨年9月から製作し、3月26日に放映予定でした。ところがご存知のように3月11日に発生した東日本大震災の影響で延期になってしまったようです。031.gif
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土石流に埋まった家屋がそのまま保存されていました。
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 私を島原めぐりで乗せてくれたタクシーの運転手さんは、20年前、雲仙普賢岳に取材に来ていたカメラマンを乗せて撮影ポイントまでよく往復したそうであり、20年前の6月3日のことは忘れることが出来ないと言っていました。そして運転手さんはNHKの再現番組にも同行し、20年前の火砕流を再現してしまうNHKの技術力は凄いとおっしゃっていました。再現ドラマの中で、クラフト夫妻がまさに火砕流にのまれて命を落とす寸前の顔を見て涙が出たそうです。役者さんの演技とは言え、これで「命が終わる」という哀しさ、あきらめ、悟りを感じ取ることができたそうです。

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To be continued.
旅はまだまだ続きます。

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島原城
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by ryott-ryott | 2011-03-27 10:28 | 雲仙・島原・長崎 | Comments(2)

省エネの夜にも必ず夜明けが来る(^o^)丿

旅行・地域
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 3月11日に東日本大震災が発生してから2週間経過しました。死者は9000人を超え、被災した原子力発電所が各方面に様々な影響を及ぼしています。
 東京は大きな被害はありませんでしたが、交通事情の悪化、物資の不足、計画停電の影響など、混乱はまだまだ続いています。大井町湯屋も今週から再開したものの、18:00までの短縮営業で、月末まで短縮営業が続くとのことであり、なかなか湯屋仲間との再会も果たせないままです。そして、富士山をはじめ、雲取山、筑波山を一緒に登った浦安湯屋の方も地震による地盤の液状化現象に大変な生活を強いられています。

 以前、仕事で福島県へ出張していたときに、親交のあった方と、今日、やっと電話が通じて無事を確認できました。その方は福島県双葉郡浪江町に在住しており、11日の地震発生後、原子力発電所の周囲5 km、10 km、20 kmと立ち入り禁止区域が拡大するとともに取るものも取りあえずにまずは郡山に避難し、その後、埼玉県にいる娘さんのところへやっとの思いで辿り着いたそうです。

 テレビでは宮城県や岩手県の惨状、被災した原子力発電所の状況を連日報道されていますが、福島県の惨状も目に余るものがあるとおっしゃっていました。街の建物のほとんどが倒壊し、原子力発電所の近くに位置する富岡町、双葉町、大熊町、浪江町には現在は誰もいないそうです。また海岸沿岸部も津波に襲われ、被害はテレビで報道されている気仙沼や陸前高田市と変わらないそうです。富岡駅やビジネスホテルのサンライズ富岡の建物は津波に襲われて、その姿形は無いそうです。しかも、状況をさらに悪くしているのは水素爆発した原子力発電所の近くであるため、半径20 km以内は立ち入り禁止になっており、人が立ち入ることが出来ずに、亡くなられた方のご遺体が手付かずで瓦礫の中に放置されているとお話されていました。
 そして、生きている間に故郷の浪江町に戻ることが出来ないのではないかともおっしゃっていました。生活が落ち着いたら、また逢いましょうと、再会を約束して電話を切りました。
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 果たして日本はどうなってしまうのでしょうか。今回の地震で被災した原子力発電所はもう復旧することはないでしょう。また、それに変わる発電施設の建設も、なかなか進まないのではないでしょうか。これをきっかけにして、省エネが一気に進むと思います。江戸時代、電気がなくても、その当時は4000万人の日本人が生活を送っていたという実績があります。今まで電気を使い過ぎていた分、省エネ体質へのリハビリを始める時期に来たのかもしれません。そして始まったばかりの夜にも、必ず夜明けが来るはずです。
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 さて、先週の16日、地震の混乱が続く中、大井町駅前に阪急百貨店がリニューアルオープンしました。地震で臨時休業する店が多かったため、予定通りにオープンできるのか気になっていましたが、営業していました。酒屋の佐藤さんも3年ぶりに大井町店に戻られて、3年前はもう会うこともないだろうと思っていたおばさん店員の方も前と変わらずに試飲コーナーを担当していたのには驚きました。年齢を重ねるに従い、老化するスピードも落ちて行き、あるところからはそれ以上進まなくなると言うのが私の観察結果であり、同窓会に毎年出席してわかりました。

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佐藤さんも忙しそうでした
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(石川さゆり/火の国へ)

火の国へ(作詞:阿久悠、作曲:三木たかし、歌:石川さゆり)

あなたなしでも生きられる
そんな女になりたいと
熱い思いの火の国へ
生まれ変わりに参ります
東京駅から西へ向け

泣かぬ女の
泣かぬ女のひとり旅

雨の降る日はしのび逢い
それが似合いの恋なんて
甘く見えても真実は
若い私をやせさせた
三年三月は重過ぎて

とても背負って
とても背負って行けません

肥後の火の山阿蘇の山
私むかえてくれる山
明日はあなたの想い出も
すべて燃やしてしまいます
未練が眠りをさまたげる

そして夜汽車は
そして夜汽車は火の国へ

そして夜汽車は
そして夜汽車は火の国へ

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小野小町は平安初期(9世紀ごろ)の女流歌人で、「六歌仙」の一人として「古今集」をはじめ、数多くの勅撰歌集に秀歌をのこしています。生没年ともに不詳、そして絶世の美女だったと言われています。

小野小町に関する伝説、お墓は全国に点在しており、福島県に生地といわれる小野町があります。これは同じ小野一族で、浄瑠璃節の祖と言われた小野お通が、小町を主人公にした歌物語、恋物語、人生落魄(らくはく)の物語に仕立てて諸国をまわった影響とみられています。能の世界でも「小町もの」の人気は高く、さまざまな小野小町の生きざまを描いています。

才色兼備の絶世の美女、小野小町に憧れる男性は多く、中でも深草の少将の「通小町(かよいこまち)」は有名です。深草の少将が小野小町に「私のもとに、なんとしても嫁に来ていただきたい」と言い寄るところ、小町は「ならば百夜(ももよ)通ってください、そうすればあなた様のもとに参りましょう」と返事をします。「百夜通え」とは百日間欠かさず来ることを要求しました、しかし部屋に入れてくれるわけではありません。小町の住むところまで通ってきて、その外で歌などを詠んで帰っていくという繰り返しです。深草の少将はやりました。99日通い、あと一日で百夜だというところで、病を得て、とうとう焦れ死にをしてしまいました。

小町に仕えていた女中衆が、小町にそのことを知らせると、表情も変えずに脇に置いてあった「ほれ帳」と書かれてあった手帳を開き、イロハの順の「フ」の部に書いてあった深草の少将の名前に棒を引いてあっさりと消してしまったという話です。
実は小野小町は女性としての機能がなく、男性を受け入れることが出来ない体であったと言われています。それなのに「百夜通え」というのはイカサマじゃないかと、後に川柳を詠む江戸っ子たちは小野小町のことを「穴なし小町」と言うようになりました。

 裁縫に使う、穴のない針のことを「待ち針」と言いますが、もともとは「小町針」と言われており、「小」がとれて「町針」になり、「待ち針」となりました。

 小野小町は「俳句歳時記」では観音様の化身と言われており、その縁日である3月18日を「小町忌」としています。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

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(小柳ルミ子/星の砂)

星の砂(作詞:関口宏、作曲:出門英、歌:小柳ルミ子) 060.gif


二度と出来ない恋を捨てあなた遠く
離ればなれになってゆくの 今つらいわ

嫁ぐ日岬にひとりたたずみ君住む島に
別れを告げる
凪いで凪いでまぶしいサンゴの島が
にじんで落ちて 星の砂

過ぎし日 二人は海辺に遊び
変わらぬ愛を 夕陽に祈る
いつかいつか 二人は運命にさかれ
私は遠く 石垣へ

髪にかざした ブーゲンビリア
そえぬ運命に赤く咲く
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい 星の砂

ルルル・・・・・ルルル・・・・・
ルルルル・・・・・

風よ吹け 波よ打て
それであなたにつぐなえるならば
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい この想い
届けてほしい この想い

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 私は地震の多い関東を離れて、3連休の前日1日を足して4連休にして、長崎の雲仙にいました。東京にいると、震度3程度の地震が毎日1回はあり、「そのうちに富士山が噴火する、地震はその前兆だ。」とか「近々、天皇陛下が東京を離れて疎開する。」とか、真実とは思えない噂が流れていました。地震で大変な時期に旅行なんて行っている場合ではないという方もいらっしゃいますが、行くことが出来る状況であれば、予定通り出掛けたほうが健全であると考え、3月18日から3泊4日で雲仙・島原・長崎へ行きました。070.gif
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 今回の旅の目的はちょうど20年前に火砕流と土石流で大災害を起こした雲仙普賢岳を登って、島原でその時の災害がどういうものであったのかを学ぶための修学旅行です。027.gif
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 朝8時15分の長崎行きの飛行機に乗り、長崎空港から諫早行きのバスに40分乗り、諫早で雲仙行きのバスに乗り換えて80分ゆられて目的地の雲仙に到着しました。ホテル到着は13:30くらいでした。
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 この東京から雲仙へ移動した日は青空が広がるとてもいい天気でした。この天気が最終日まで続いてほしいと祈りました。日が暮れるまでは少し時間があったので、雲仙の地獄めぐりと絹笠山(870 m)へ登って、明日登る予定の雲仙普賢岳を拝むことにしました。
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 まずは雲仙の地獄めぐり。私が泊まったホテルから歩いて数分のところに雲仙地獄めぐりがあります。いたるところから湯気が噴き出ており、温泉独特の硫黄臭がしました。
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 この雲仙地獄めぐりの中に隠れキリシタンの慰霊碑があります。織田信長が死んで、豊臣秀吉、さらに徳川家康の時代へと移って来ると、それまで許されていたキリスト教は禁止され、キリスト教徒は弾圧されました。長崎奉行が捕えた隠れキリシタンはこの雲仙地獄の中に放り込まれて処刑されたという記録があり、雲仙地獄に慰霊碑が建っています。
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 絹笠山からは西に橘湾を望むことが出来、天気が良ければ、橘湾に沈む夕日を見ることが出来ます。私が登った時は、残念ながら雲がかかり、夕日は望めませんでした。ただし夕日まで待っていると低山とは言え、絹笠山を降りる道が真っ暗になってしまうため、止めた方がよいとホテルの人に言われました。
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 果たして明日の天気はどうなることでしょう。3月19日土曜日の天気は予報では曇り時々晴れで雨は降らないようです。明日の好天を普賢岳に向かって、祈りつつ、ホテルへ帰りました。

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いい歳、りょうちゃんの旅は始まったばかりです。
To be continued.

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by ryott-ryott | 2011-03-24 23:08 | 雲仙・島原・長崎 | Comments(0)