<   2009年 10月 ( 5 )   > この月の画像一覧

映画「沈まぬ太陽」~あなたの信念があなたの力になる~ヽ(^o^)丿

b0190242_10221116.jpg
b0190242_1022308.jpg


土曜日朝一番のエアロビクスのインストラクターは火曜日の人気インストラクターと同じ名前なんですね。その土曜日は朝から奥山エアロ、中国整体、大暴れアクアをやりました。
そして、本日10月24日公開の映画「沈まぬ太陽」を観に行ってきました。上映時間3時間22分(202分)。途中半分で10分間の休憩がありました。
058.gif


(沈まぬ太陽)

「生まれながらの詩人は、詩的な死に導かれる」と言われますが、中原中也もその一人でしょう。
豊かな才能もむなしく、31歳で夭逝しました。

薄幸な人生であっても、その業績は永遠で、書店の店頭からその名が消えたことはありません。角川書店から「中原中也全集」全5巻と、従来の研究・評論を集大成した別巻が出されました。

友人の小林秀雄は「彼は一流の抒情詩人であった」と評していますが、彼の作品が今日なお愛好されているのは、この抒情に裏打ちされた「青春の挫折感」に共感を覚えるからでしょう。
処女詩集「山羊の歌」、第二詩集「在りし日の歌」に、彼の絶唱が熱っぽくうたわれています。

    汚れちまった悲しみに
    今日も小雪の降りかかる
    汚れちまった悲しみに
    今日も風さへ吹きすぎる
         (「汚れちまった悲しみに」)


    ホラホラ、これが僕の骨だ
    生きていた時の苦労にみちた
    あのけがわらしい肉を破って、
    しらじらと雨に洗はれ
    スックと出た、骨のさき
         (「骨」より)


その他「サーカス」の詩の最後に繰り返される「ゆあーん ゆよーん ゆあゆよん」の表現がまだ耳に残っています。

昭和11年11月、3歳になった長男文也を失った彼は、急に精神に異常をきたし、昭和12年(1937年)10月23日午前0時10分に永眠しました。墓は郷里の山口市湯田温泉の経塚にあります。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)



(映画「沈まぬ太陽」)

渡辺謙演ずる恩地元は国民航空の労組委員長。職場環境の改善のため会社と闘っていた。会社側に改善案を突き付け、これを呑まなければ、首相フライトの日にスト決行を副委員長の行天(三浦友和)とともに宣言。見事、会社から賃上げを勝ち取ったが、そんな恩地に待っていたのは不当な懲罰人事であった。パキスタンのカラチ支店へ左遷されてしまう。国民航空社長・桧山は恩地以外の組合幹部に懲罰人事を行わない約束をし、2年間のカラチ転勤を恩地に言い渡したのだった。しかし、2年間のカラチ転勤の約束は守られるどころか、ついでイランのテヘランへの海外勤務、国民航空の就航路線がないケニア・ナイロビにまで転々と赴任を9年間強いられていく。その間、恩地は母親を失い、妻子と離ればなれの生活を強いられ、さらにナイロビで取り組んでいたケニア政府との航空交渉を本社が打ち切ってしまい、失意の仲、サバンナに沈む太陽を眺めていた。
一方、恩地とともに闘ってきた行天は、組合を裏切り、エリートコースと引き換えに組合を分裂させ、出世と利益のためには手段を選ばない生き方をする。
 

映画のエンディングで福原美穂が「Cry No More」という歌を歌っていますが、まだYou Tubeにはありませんでした。

(福原美穂/優しい赤)

9年の海外赴任を終え、ようやく日本へ戻ってきた恩地だったが、御巣鷹山でジャンボ機墜落が起こってしまう。恩地は遺族の世話係を命じられる。御巣鷹山付近の体育館には、犠牲者の遺体が次々と運び込まれ、遺体確認立会いと補償交渉の窓口に立つ日々が続いた。
この事故で信用を失った国民航空の立て直しをするため、日本政府が関西紡績の国見(石坂浩二)に会長就任を要請する。その新体制のもとスタートした国民航空で恩地は会長室のメンバーに抜擢され、空の安全確立を行い、国民航空の再スタートのために立ちあがるのであった。
しかし、恩地の前にはかつて共に労組で闘ってきた行天が立ちはだかる。遺族会の切り崩しや、国見体制への妨害工作など、恩地との暗闘が始まっていた。果たしてその結末は・・・・。
004.gif

b0190242_1030145.jpg


この映画の中に出てくる御巣鷹山の航空機墜落事故は、まさしく1985年8月12日に起こった日航機墜落事故を指しており、内容のほとんどがノンフィクションです。墜落して行く飛行機内で父親が手帳に家族に宛てて遺書を書くシーン、そして体育館に並んだ棺の前で子どもがその手帳の遺書を読むシーンでは、映画を見に来たみんなが泣いていました。泣いていないのは弁当を喰っていたババァだけです。037.gif

そして、筋を通した生き方をするために不遇に扱われる主人公が、自分の家族から「お父さんはいつも波に逆らって生きている」と言われると、「波に逆らって生きることより、波に乗って生きることの方が難しいんだ。波から落ちないように、いつも波にしがみついていないといけないんだよ。」という場面がありました。自分に正直に、信念を通した生き方こそ、実は一番安らぎのある行き方だと、この映画は教えていると思います。004.gif


(福原美穂/雪の光)

b0190242_10553617.jpg

by ryott-ryott | 2009-10-25 10:35 | movie

いい歳、りょうちゃん、日本酒試飲会へ行くヽ(^o^)丿

b0190242_2354486.jpg
b0190242_23543557.jpg
b0190242_23552439.jpg

058.gif
b0190242_23562661.jpg
b0190242_23571499.jpg
b0190242_23583763.jpg
b0190242_23585683.jpg
b0190242_23592422.jpg


土曜日は奥山エアロ、整体、大暴れアクアをやりました。10月から土曜日の朝のエアロビクスは裕太郎さんから女性の奥山さんに替りました。なかなか難度の高いエアロで、私も含めて数多くの方が立ち止まっていました。041.gif
中国整体の先生はときどき、この土曜日歳時記を見てくださっているようであり、前回の朝日の写真を褒めて戴きました。構図がよいそうです。また新富山の展望台から見た朝日と大高森から見た夕日は地平線の半分くらいに太陽が出ている写真を載せるべきだとのアドバイスをいただきました。今日はその写真を選んでみました。
058.gif

b0190242_004362.jpg
b0190242_013178.jpg
b0190242_021741.jpg
b0190242_025036.jpg


b0190242_033916.jpg


文芸雑誌「スバル」の同人で、「耽美派の旗手」として注目された木下杢太郎は、終戦直後の昭和20年10月15日、胃ガンのため、61歳で亡くなりました。

代表作としては、「食後の唄」(詩集)、「和泉屋染物店」、「南蛮寺門前」、「空地裏の殺人」(戯曲集)、「唐草表紙」、「厥後集(けつごしゅう)」(小説集)、「すかんぽ」(随筆集)などがあげられます。
文芸の各分野で活躍した人です。彼は、静岡県伊東市湯川の生まれ。家は「米惣」の家号をもつ素封家で、代々呉服と雑貨を営んでいました。東京帝大医学部を卒業後、愛知医大、東北帝大、東京帝大の医学部教授を歴任した、れっきとした医学者でもありました。

死後10年過ぎた昭和31年10月21日、国鉄伊東駅の裏山に当たる伊藤公園の丘の上に、彼と親交の深かった著名な建築家谷口吉郎の設計で、ユニークな「すかんぽの碑」が建立されました。

ふるき仲間も 遠く去れば
また日頃 顔合わせねば
知らぬ昔とかわりなき はかなさよ
春になれば 草の雨
三月 桜 四月 すかんぽの花のくれない
また五月には かきつばた
花とりどり 人ちりぢりの眺め
窓の外の入日曇


山田耕筰によって曲がつけられ、戦前のNHKラジオ歌謡として、広く歌われました。年配の人々が懐かしんで、ときどき口ずさむ歌の一つです。

今、杢太郎の生家は、もとの「米惣」時代の建物を修復して、「杢太郎記念館」になっています。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)


b0190242_0512.jpg
b0190242_055064.jpg


そして18日の日曜日は日本酒の試飲会に行きました。全てで13の酒蔵から54種類の日本酒が陳列されました。大井町湯屋から湯浅さん、佐藤さんと一緒に参加しました。佐藤さんは会場に着くなり、あっという間に全酒蔵を制覇。041.gif
湯浅さんと私はゆっくりとSLD(Slow Long Distance)。今回何よりも好評だったのは、各酒蔵で用意された酒の肴です。泉橋酒造の梅干しと味噌、中沖酒造の茄子の漬物、瀧自慢酒造のアサリの柔煮など、酒がすすむ肴ばかりでした。もともと肴(さかな)は酒菜(さかな)であって、酒に合うものは魚も含めてすべて肴なんです。
011.gif

b0190242_063256.jpg
b0190242_065798.jpg

b0190242_074057.jpg


そして今回の私の内閣総理大臣賞は瀧自慢酒造の「神の穂」の温燗でした。温度を上げることにより、お酒に含まれている香りの成分が表に出てきて酒の旨みに変化することを、今回の試飲会で改めて実感することが出来ました。004.gif

b0190242_081667.jpg

西山酒造のお嬢さん、18歳。春さんとの年齢差、なんと30歳041.gif
b0190242_095998.jpg
b0190242_0102382.jpg
b0190242_0104423.jpg

by ryott-ryott | 2009-10-19 00:14 | 禊(みそぎ)の会

いい歳、りょうちゃん、堤焼窯元を訪ねるヽ(^o^)丿

b0190242_0334377.jpg
b0190242_0342175.jpg
b0190242_035113.jpg
b0190242_0352957.jpg
b0190242_036315.jpg
b0190242_0365310.jpg


10月13日火曜日は世の中では連休は終了しているのですが、私の勤め先は幹部の皆さんがゴルフをやるためのスポーツ奨励の日として休日でした。もちろん私は12日の夜も松島に滞在し、松島2回目の朝日を撮影しに、近くの双観山展望台へ行きました。双観山は結構、松が生い茂っており視界が狭かったです。この松を勝手に切ることはできないそうであり、松が伸びるだけ伸びています。松島四大観の一つである扇谷は生い茂る松でいまや松島湾の景観を眺めることが出来ないようです。しかし、何とか朝日を撮影することが出来ました。058.gif

b0190242_038972.jpg
b0190242_0392115.jpg


日蓮宗の開祖日蓮は、安房(千葉県)小湊の漁師の子に生まれました。

15歳で出家して仏教を学びますが、同じ仏陀(釈迦)の教えなのに、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗など、各宗派に分かれて競い合うのか疑問を感じたといいます。

日蓮は、そのため鎌倉、京都、奈良の各寺を巡訪し、七千余巻の教典を調べ、結論として、「法華経」だけを唱和すれば、それが一番正しいと悟ります。
「南無阿弥陀仏」の念仏と同じく、「南妙法蓮華経」のお題目を唱えれば救われる-これを教義としました。手法は浄土宗と同じです。

ただ、鎌倉仏教としては、最後になったとせいか、日蓮宗(法華宗)以外の宗派は、ことごとく邪教として徹底的に闘いました。各宗派を全部敵にまわしたのですから、再三捕えられ、打ち首寸前、流罪に処せられたり数多くの法難に遭いました。

佐渡島の流罪から赦免された日蓮は、甲斐(山梨)の身延山に道場を建て隠棲しました。
これがのちの日蓮宗総本山久遠寺です。弘安五年(1282年)10月13日、旅先の武蔵国池上(東京都、現在の池上本門寺)で61歳の生涯を閉じました。

日蓮宗は、日蓮の死後弟子たちの力で隆々発展し、数多い分立各派(門流と呼びます)が誕生します。富士山麓に創建された大石寺が、富士門流の一つで、現在の創価学会の本拠になっていることはご存知の通りです。

日蓮は元の襲来を予言し、それを退散させ、今日の福岡市を護ったということで、福岡市の県庁脇の小公園に、大きな日蓮の立像が建っています。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)


輪王寺山門
b0190242_041757.jpg

お釈迦様の足跡
b0190242_041252.jpg

b0190242_042483.jpg

b0190242_044425.jpg


朝日を撮影後、ホテルへ戻り、朝食を済ませてチェックアウト。松島に別れを告げて、仙台へ向かいました。
仙台は輪王寺へ行きました。もともと輪王寺は1441年に11代の伊達持宗が福島県の梁川に創建したお寺です。伊達家の居城が梁川から西山・米沢・会津・米沢・岩出山・仙台と変遷したため、輪王寺もまた転々として、今の仙台に移ったのは17代政宗の1602年(慶長7年)の時でした。
輪王寺は明治9年に火事で焼けてしまいまい、その後、大正に再建されたときに庭園も現在の規模に建設されました。
056.gif

b0190242_0452643.jpg
b0190242_0454870.jpg
b0190242_0462367.jpg


私が訪れた時、輪王寺の中では写経をやってました。そして庭園は庭師の方が植物を植えかえていました。10月も中旬に差し掛かろうというのに、庭園の中にはスズメバチが飛んでおり、私の耳元をかすめて行きました。071.gif

b0190242_0464698.jpg
b0190242_047724.jpg


輪王寺を見た後、近くの堤焼の工房を見学してきました。今は窯を使ってなく、専門の工場で作っているそうです。堤焼きの歴史は古く、あの多賀城(坂上田村麻呂の時代、平安時代)の瓦にも使われていたといいます。堤人形屋「つつみのおひなやっこや」のご主人が工房を案内してくださいました。

堤焼はもともと人形を作っていたわけではなく、日常生活に必要な日用品を焼いて作っており、そのときに人形も作られていたと言います。027.gif

ちょっとした坂道に6つの登り窯があり、中はレンガ作りになっていました。焼成するときの温度は1400 ℃にも達するそうであり、レンガは1400 ℃の高温に長年さらされるとガラス状に変質してしまうとのこと。


b0190242_0493287.jpg
b0190242_050320.jpg


工房には平安時代に作られた瓦が無造作に置いてありました。
b0190242_0503686.jpg


こちらは天保14年(1843年)に作られた「鬼瓦」。
b0190242_0511329.jpg


主に水がめを作っていたようです。
b0190242_0515935.jpg
b0190242_052249.jpg


お宮も陶器として焼いて作っていたそうです。
b0190242_053136.jpg


これはかまぼこのすり鉢。仙台といえば、「笹かまぼこ」ですが、昔は冷蔵庫がなかったため、魚をすり身にして焼いて日持ちさせたのが始まりだそうです。
b0190242_05334100.jpg


戦時中、飛行機のエンジンに燃料を供給する容器。金属製では燃料の燃焼熱で金属製容器が溶けてしまうため、陶器で作られていました。
b0190242_0535945.jpg


これは伊達家が戦国時代に使った大砲の砲弾だそうです。
b0190242_0542916.jpg


初代横綱谷風の堤焼人形、寛政元年(1789年)製作。
b0190242_055457.jpg


堤町の様子を示した絵巻。その当時は各家に堤焼を焼く窯を持っていたそうです。
b0190242_0553919.jpg
b0190242_056287.jpg
b0190242_057331.jpg
b0190242_0574828.jpg
b0190242_0581349.jpg


どれも博物館にあってもおかしくないものばかりでした。時々、歴史資料館からこの工房にあるものを借りに来るそうです。そして、この工房の先に文学館があるそうなのですが、その文学館よりもこの堤焼工房を訪れる人が多いとおっしゃっていました。

古くは平安時代から江戸、明治、そして昭和へと時の流れを体験できた工房見学でした。

仙台、もちろん牛タンを食べて、東京へ帰りました。


b0190242_059092.jpg
b0190242_0592812.jpg

by ryott-ryott | 2009-10-16 01:05 | 奥の細道

いい歳、りょうちゃん、松島へ朝焼け・夕景の旅ヽ(^o^)丿

b0190242_9264526.jpg
b0190242_9281327.jpg
b0190242_929277.jpg


旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 松尾芭蕉

10月10日が「体育の日」の座を明け渡して、今の祝日体系になってから何年が経過したことでしょう。今年は10月12日(月)が体育の日で、土曜日から3連休です。しかし、私の場合は体育の日の翌日も勤め先がお休みでした。したがって、4連休、宮城県の松島に出かけて来ました。004.gif

b0190242_9353890.jpg

b0190242_9311148.jpg


土曜日の夜から移動したかったのですが、宿を取ることが出来ずに、日曜日に移動しました。日曜日は雲ひとつない快晴で、幸先のよい旅の出発になりました。秋田新幹線「こまち」に乗って2時間弱で仙台へ到着。仙台から「仙石線」に乗り換え、「松島海岸」まで約30分、電車に揺られて、目的地に到着しました。

「松島海岸」は大勢の観光客で賑わっていました。私が到着したのはちょうどお昼時でしたが、どの店も「人」「人」「人」・・・で、牛タンを食べさせる店は店外まで人が長蛇の列。日本は不況だという割には、どこからこんなに大勢の人が集まってくるのでしょうか。

私はやっと人気のなさそうな鮨屋に入ると、店主が「40分ほどかかりますが、いいですか?」と聞くので、「構いませんよ。」と返事をしたものの、本当に40分、いやそれ以上待たされました。しかし、お酒はすぐ出てくるので昼間からだいぶ飲んでしまいました。
037.gif

b0190242_933960.jpg
b0190242_9335159.jpg

b0190242_936779.jpg


俳聖・松尾芭蕉は元禄7年(1694年)陰暦10月12日に亡くなりました。享年51歳でした。
寛文12年(1672年)俳諧師を志して,郷里伊賀上野を出て、江戸に上がった芭蕉は、亡くなる年の前年、お盆の墓参りを兼ねて、生まれ故郷の伊賀上野にやって来ました。9月8日、去りがたい故郷を後に門人に付き添われて、奈良を経由して大阪難波に向かいます。

 菊の香や奈良には古き仏たち

途中、奈良で詠んだ句です。翌9日大阪に到着し、翌日から発熱してしまいます。それでも病をおして、予定の俳席をまわったために病床に伏すようになりました。

 この道や行く人なしに秋の暮
 
 秋深き隣はなにをする人ぞ

よく知られている句は病中に読んだ句です。10月に入り病状は悪化し、10月8日深夜に辞世の句を門弟に書き留めさせました。それが冒頭の句、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」です。
芭蕉には数多くの門弟が居ましたが、その中でも特に優れた10人の門弟を「蕉門十哲」といい、宝井其角(たからいきかく)や服部嵐雪(はっとりらんせつ)が有名です。また芭蕉の門下の女性のうち特に秀でた4人を四俳女と呼んでいました。智月(ちげつ)、捨女(すてじょ、「女を捨てる」なんて凄い俳号です)、秋色(しゅうしき、本名「お秋ちゃん」で最年少)、園女(そのめ)。芭蕉は大阪で亡くなりましたが、その時、園女夫婦から大変なもてなしを受けて、読んだ句が「白菊の目に立てて見る塵もなし」。園女夫婦の家は奇麗に掃除がされており、塵一つない、その「たたずまい」はまるで白菊のようであった、と歌っています。しかしながら夫婦が出したキノコ料理にあたったのが原因だと言われています。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)


なぜか「一眼レフの旅」に出る前に「じゃんけんぽん」で珍しいお客さんにお会いします。
試飲会仲間の三峡第一製薬で薬の売人をしている石井ちゃんとお仲間の捨女のみなさん。041.gif
b0190242_9384660.jpg

b0190242_9391271.jpg


「西行戻しの松公園」から見た松島湾
b0190242_942236.jpg


今回の旅の目的は言わずと知れた「一眼レフ」で松島の景観を撮影する「一眼レフの旅」です。幸いにも天気に恵まれ、私にしては上出来な写真を撮ることが出来ました。天気がよかったので、前回からの懸案事項である「夕景・夕日」を撮影することもできました。058.gif

私の場合は、食べる店もそうなのですが、どこが夕景のスポットかを事前に調べることはあまりせずに、地元の方に教えてもらうことにしています。その方がよい場所、よい店に巡り合う確率は高いと思います。今回もどこに行けばきれいな夕景が撮ることが出来るか、ホテルマンからタクシーの運転手、鮨屋の人にまで聞きました。驚くべきことにほとんど皆さんが違う意見でした。


b0190242_9453731.jpg

b0190242_9472046.jpg
b0190242_9491162.jpg



日曜日初日はそれらの意見を集約できずに、「西行戻しの松公園」へ行き、残念ながら、夕日を撮影することはできませんでした。そして、昼間はあんなに気温が高かったのに、夕刻はめっきり冷え込んで、さすがの私でも半袖で失敗したと思いました。そのくらい気温が下がり、後で聞いたら10 ℃を下回っていたそうです。暑がりの私でも10 ℃を切ると、寒さを感じます。しかし、帰りのタクシーの運転手さんに朝焼けの穴場スポットを教えていただきました。新富山の展望台に行けば、きれいな朝日・朝焼けを見ることが出来ると教えてもらいました。ホテルから歩いて15分くらいのところでした。その言葉を信じ、朝4時30分に起きました。日の出は5時42分、5時過ぎから東側の空が明るくなり、海を挟んで島の稜線上の空は真赤な朝焼けに染まっていました。そして、その明るさが次第に増していき、ついに朝日が稜線上に顔を覗かせました。058.gif

b0190242_9502687.jpg

b0190242_9514586.jpg

b0190242_9531010.jpg


昼間はフェリーで松島を一周ぐるりとまわり、島々を写真におさめました。乗船客がカモメに餌をやるので、いつまでもカモメが船のまわりにまとわりついて、撮影の邪魔でした。003.gif

b0190242_1034551.jpg

b0190242_954524.jpg


昼間は瑞巌寺、円通院、福浦島をブラブラと歩いて有酸素運動ウォーキング。070.gif

b0190242_9561943.jpg
b0190242_9564479.jpg
b0190242_9575137.jpg

b0190242_9585069.jpg
b0190242_9595886.jpg

b0190242_1043718.jpg
b0190242_106418.jpg

b0190242_1065756.jpg
b0190242_10854.jpg

b0190242_10174644.jpg
b0190242_10182539.jpg


よくよく考えれば、松島は太平洋に面しているので、夕日・夕景は場所を選ばないと、なかなか見ることはできないようです。松島には260余りの島々を一望できる四大観があります。富山(とみやま)、大高森、扇谷、多門山。その中でも大高森は裏松島で外海に面しており、朝焼けも夕景もどちらも眺めることが出来る唯一の場所です。車で松島から約20分。そこから展望台までは山道を登ります。標高106 m、大したことはない高さですが、意外ときつい。昇ること15分。そこは東側は外海の太平洋を、西側に松島湾を眺めることが出来ました。058.gif

To be continued

b0190242_1020119.jpg
b0190242_1021968.jpg
b0190242_10214630.jpg

b0190242_10242641.jpg
b0190242_10252212.jpg
b0190242_102620100.jpg
b0190242_10275636.jpg

by ryott-ryott | 2009-10-14 10:34 | 奥の細道

いい歳、りょうちゃん、土門拳記念館を行く~さらば、酒田~ヽ(^o^)丿

b0190242_0452983.jpg

じゃんけんぽんへ行ったら、エルビーさんが持ってきてくれたというハゼを唐揚げにして出して戴きました。011.gif
b0190242_046434.jpg

b0190242_0464319.jpg

今日10月3日は仲秋の名月、十五夜の月でした。日曜日は満月です。072.gif

いつものように大井町湯屋へ行き、新しいインストラクターのエアロ、中国整体、大暴れアクアビクスをやりました。中国整体が終わった後に、お昼御飯を「木洩れ日」さんに食べに行くところ、ポリスマンさんにバッタリ。ポリスマンさんたちも「木洩れ日」さんでご飯を食べてきたところだったそうです。041.gif


(Fit’s CM)
b0190242_1254321.jpg
b0190242_1261152.jpg

「晩鐘」「種まく人」「落穂拾い」「羊飼いの少女」・・・・田園の叙情と祈りをテーマにした、ミレーの絵は、日本では明治以来親しまれてきました。
明治の文豪、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)は「晩鐘」を見て、こんな一文を書いています。

「一日の業を終わりたる若き農夫その妻と、今方(まさ)に家路につかんとする時、エンジェラスの祈禱を告ぐる夕べの鐘の音響きわたりぬ。二人は頭(こうべ)を垂れて無言の祈りを捧げぬ。地には平和あり、天には光あり、人には愛情あり。而して天国の響きに応ふるこの祈りだにあらば、吾等この世に於いて何の求むる所ぞや・・・・・」(明治35年「文芸界」)

素朴な農民たちの姿を描く彼の絵は、今日になっても日本人の共感を誘わずにはおきません。
ミレーは1814年10月4日、北仏ノルマンディー地方の小村グリュシュイの農家で生まれました。
23歳でパリに出て、最初肖像画家を志しましたが、35歳のとき、パリから60 kmあまり南下したバルビゾンに移り、働く農民の姿を描く農民画家として、そこで60年の生涯を終えました。
わが国では、1977年、山梨県立美術館が1億700万円でミレーの名作「種まく人」を購入して当時話題になりました。

この絵は、最初の持ち主はパリ内務省の役人アルフレッド・サンシュ。1837年にニューヨークに渡り、鉄道王2代目W・H・バンダービルトが2番目の所有者。次にフィラデルフィアのプロビデント・ナショナル銀行が3番目、1977年競売に出され、東京の画商が落札して、山梨の県立美術館に収めたものです。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

b0190242_051067.jpg

土門拳記念館
b0190242_0514974.jpg
b0190242_052191.jpg


山形・酒田の旅、最終日。

9月23日秋分の日、この日も朝から激しい雨でした。夕方の帰りの飛行機の時間まで酒田の街をブラブラしようかと思っていましたが、結構な雨量のため、それもままならず。057.gif

最上川を渡って、飯森山公園にある土門拳記念館に行きました。土門拳は既に故人ですが、酒田出身の世界的な写真家であり、土門拳記念館は日本で最初の写真美術館です。土門拳の全作品が収蔵・展示されています。


ごみ捨て場のバー、大森駅付近、東京 林忠彦、1950年
b0190242_0551452.jpg

倒壊したビルを家に、江戸川橋、東京 林忠彦、1947年
b0190242_056621.jpg

終戦の日の太陽、高田、新潟 濱谷浩 1945年
b0190242_056324.jpg

焼け跡の母子、高田馬場、東京 林忠彦 1947年
b0190242_0575391.jpg

広島平和記念公園、広島 土門拳 1957年
b0190242_0582977.jpg

配給を受ける長い列、銀座 東京 林忠彦 1946年
b0190242_059342.jpg

SKDの踊り子、浅草国際劇場屋上 東京 田沼武能 1949年
b0190242_0594431.jpg

本郷森川町 東京 木村伊兵衛 1953年
b0190242_102831.jpg

銀座の若者 東京 田沼武能 1960年
b0190242_11638.jpg

海抜ゼロメートル地帯の洪水、大島 東京 長野重一 1959年
b0190242_113864.jpg


土門拳記念館を見た後は、明治26年(1893年)に建てられた米の保管倉庫である山居(さんきょ)倉庫へ行きました。11棟のうちの1棟は現在も農業倉庫として使用されています。私が訪れた時にはジュサブロ―の人形展が開かれていました。

山居倉庫
b0190242_13237.jpg

山居倉庫とケヤキ並木
b0190242_143855.jpg

b0190242_153092.jpg
b0190242_161537.jpg

昔は米俵5つ 300 kgの米を背負っていました
b0190242_173837.jpg
b0190242_18711.jpg


最後は明和5年(1768年)に建造された本間家旧本邸と酒田を代表する廻船問屋の旧鐙屋(あぶみや)を見学しました。004.gif

本間家旧本邸の入り口
b0190242_110632.jpg

廻船問屋は現在の商社。昔は来客をこのようなご馳走でもてなしたそうです。011.gif
b0190242_1105485.jpg
b0190242_1111926.jpg
b0190242_1114032.jpg
b0190242_1124254.jpg
b0190242_113452.jpg

昔のかき氷機。鰹節削り機かと思いました。037.gif
b0190242_1133153.jpg

鐙屋の繁栄ぶりは井原西鶴の「日本永代蔵」で紹介されています。004.gif
b0190242_1144973.jpg

浄福寺・唐門
b0190242_1155346.jpg

b0190242_117918.jpg

シルバーウィーク後半はお天気に恵まれませんでしたが、日本の文化文芸に接した酒田の旅を楽しみました。夕方、庄内空港へ向かい、酒田の街に別れを告げました。004.gif
b0190242_120487.jpg

by ryott-ryott | 2009-10-04 01:28 | museum