旅行・地域
9月19日(土)~22日(火)、黒部五郎岳に行ってきました。いい歳りょうちゃんが写っている写真はすべてトミーさんのブログからもらいました。
今年は敬老の日と秋分の日が同じ週にある5連休のシルバーウィークでした。シルバーウィークは5年ぶりだったそうです。当初週間天気予報では後半に傘マークがついていましたが、傘マークも取れて、晴天のシルバーウィークとなりました。予定していた午前7時新宿発の特急あずさ1号は1週間前から満席で、6時30分の臨時電車に乗って松本駅まで行きました。臨時電車は旧型車両で撮り鉄がホームたくさんいました。
黒部五郎岳は昨年のお盆休みに折立から太郎平小屋をベースキャンプにして登山する予定でしたが、激しい雷雨に見舞われて断念し、今年はそのリベンジでした。今年は新穂高温泉から鏡平小屋~弓折分岐~双六小屋~三俣蓮華岳~黒部五郎小屋~黒部五郎岳へのピストンで登る予定です。
新穂高温泉は松本駅から約90分、新穂高温泉周辺の駐車場はどこも満車。しかもロープウェイ前の駐車場は閉鎖していました。しかたがなく、歩いて約1時間ほどの園地の近くに駐車して、新穂高温泉に着いたのは11時30分すぎでした。今日は鏡平まで6時間の行動時間です。
まずは長い林道歩きから始まります。途中に風穴、笠新道分岐、わさび平小屋があり、2012年に笠ヶ岳に行った時に歩いたルートと同じです。写真は風穴銀座、涼しい風が風穴から流れてきます。
途中荷揚げのヘリコプターが停泊していました。これで山頂まで行ってもらえたら、楽だったでしょう。
わさび平小屋。
歩き始めて2時間でようやく登山口にたどり着きました。今日はヘッドランプでの登山を覚悟しました。
このような階段状の登山道が延々と続きます。かなり疲れてしまいました。最後はお地蔵さんに「歩くのが遅すぎる!」と怒られながら、何とかヘッドランプを使うことなく17時30分に鏡平小屋に到着することができました。
今回宿泊した鏡平小屋、黒部五郎小屋、双六小屋はすべて超満員、1枚の布団に2人が当たり前でした。食事も5回戦、6回戦が当たり前でした。
2日目の9月20日(日)は黒部五郎岳へ向かいます。天候は最高で、雨具を一度も使うことなく山歩きができました。写真は鏡平小屋前から見た槍ヶ岳です。
鏡池に映る槍穂高連峰。
弓折岳分岐へ。
弓折岳分岐から見た鏡平小屋。
雪田から見た弓折岳方面。焼岳、乗鞍岳、御嶽山の火山銀座を見ることができました。御嶽山からの噴煙がかすかに見えました。
雪田。雪解け後はお花畑になるそうです。
遠くに笠ヶ岳が見えました。
双六小屋越しに見える鷲羽岳。
樅沢岳を登山者が登っています。一昨年の裏銀座コースで槍ヶ岳へ向かったのを思い出しました。
今年は尾根筋を通らずに巻き道を通って三俣蓮華岳へ向かいました。
双六越しにみえる槍ヶ岳。
鷲羽岳、ワリモ岳、水晶岳が見えます。
最後の三俣蓮華岳への登りは急でした。
三俣蓮華岳の山頂に到着。標高2841 m。大目標の黒部五郎岳よりも2 mほど高いのです。
三俣蓮華岳山頂から見た鷲羽岳、ワリモ岳、水晶岳。一昨年通った道です。
黒部五郎岳の山頂には雲がかかっていました。
薬師岳と雲の平。雲の平小屋が見えます。
三俣蓮華岳の山頂は広いです。
これから黒部五郎小屋へと向かいます。
せっかく登ったのにどんどん下っていきます。
ようやく下の方に黒部五郎小屋が見えました。しかしまた300 mくらいの急坂をくだらなければなりませんでした。黒部五郎小屋の標高は2300 mくらいなので、約500 mも降りたことになります。本当にもったいないです。
黒部五郎小屋に14時過ぎに着きましたが、受付、缶ビールを買うのに長蛇の列でした。しかも50名の定員に対して300人が押しかけ、私たちは乾燥室に泊まることになりました。廊下、玄関、談話室、食堂すべてに布団が敷き詰められました。それにしても午後5時を過ぎても予約なしにやってくる登山者やそれを受け入れる小屋もどうかと思います。尾瀬沼のように予約をしなければ泊まることができないようにするなど、もう一度、予約制度について、きちんと考え直してもらいたいものです。黒部五郎小屋は金さえ儲かればいいと考えているようです。
それから黒部五郎小屋でTG社の辻さんにお会いしました。大阪発のツアーで同行してきたとのことでした。この人数で缶ビールは即完売していたので、辻さんたちはビールを飲めなかったのではないでしょうか。
(第88回安曇野歌声喫茶/ねがい)
ねがい(作詞:広島市立大州中学校3年生有志、作曲:たかだりゅうじ)
もしもこの頭上に 落とされたものが
ミサイルでなく
本やノートであったなら
無知や偏見から 解き放たれて
君は戦うことを やめるだろう
もしもこの地上に 響き合うものが
爆音ではなく 歌の調べであったなら
恐怖や憎しみに とらわれないで
人は自由の歌を 歌うだろう
もしもこの足元に 植えられたものが
地雷ではなく 小麦の種であったなら
飢えや争いに 苦しまないで
共に分かち合って 暮らすだろう
もしもひとつだけ 願いが叶うならば
戦争捨てて 世界に愛と平和を
この願いかなうまで 私たちは
歩み続けることを やめないだろう
いつもこの欄では小学館「一日一話人物歳時記」から引用していますが、今日はこれまで何回か掲載した「村田英雄伝説」を載せます。この村田英雄伝説は2012年10月に九州の日本百名山に行ったときに浦安湯屋のともちゃんから聞いた話を文字に起こしたものです。年末に勇才さんに行ったときに、隣に座っていた年配の女性と歌謡曲の話になり、私が話した「村田英雄伝説」に大変な興味と感動を示して下さいました。再度、村田英雄伝説を掲載します。
その昔、終生のライバルと言われた二人の浪曲師がいました。村田英雄と三波春夫です。三波春夫は1923年7月19日に現在の新潟県長岡市に生まれ、1939年16歳のときに浪曲師としてデビューします。その後、戦況悪化により三波春夫自身も1944年に陸軍に入隊し、満洲へ渡ります。三波春夫は満州で敗戦を迎え、ハバロフスクの捕虜収容所に送られて、4年間のシベリア抑留生活を送ることになりました。1949年に帰国し、浪曲師として再び活躍をはじめます。
一方、村田英雄は1929年1月17日、現在の福岡県うきは市に生まれ、その後、唐津市へ移り、5歳のときに浪曲師酒井雲に弟子入りします。その後、村田英雄は13歳で真打に昇進し、14歳で酒井雲坊一座の座長も務め、九州の地方公演で活躍を続けます。
二人の浪曲師、三波春夫と村田英雄は浪曲の全国大会でたびたび激突することになります。しかし、いつも1位に輝くのは村田英雄であり、三波春夫は常に2番。三波はどうしても村田に勝つことはできませんでした。
浪曲の世界では村田に勝つことが出来ないと悟った三波は、1957年に芸名を「三波春夫」と改めて、新規一転し歌謡界へとデビューします。するとどうでしょう、出す歌はすべて大ヒット。飛ぶ鳥を落とす勢いです。「お客様は神様です!」という有名なフレーズでも知られる通り、三波の天性の明るさが多くのファンを魅きつけました。
三波の歌謡界での活躍を見ながら、村田は日本一の浪曲師を夢見て東京へ上京します。そして村田にも転機がやってきます。今や歌謡界のトップにまで上り詰めた三波春夫に歌で勝負できるのは村田しかいないと考えていた人物がいました。その人こそ、あの古賀政男です。古賀政男からの誘いに対して、最初、村田はためらいました。村田はすでに結婚もしており、果たして歌謡界でやっていけるのか迷ったそうです。浪曲の世界では常に自分がトップに君臨し、三波春夫にその座を譲ることがなかった、その三波が今や歌謡界で大活躍していることを目の当たりにし、ついに古賀政男からの歌謡界への誘いを受けることにしました。
1958年、古賀政男とのコンビで最初に出したのが「無法松の一生」です。しかし、考えていたとおりにはうまくいかないもので、「無法松の一生」はまったくヒットしませんでした。三波春夫とは対照的に、村田英雄はヒット曲には恵まれませんでした。三波春夫が毎年のようにNHK紅白歌合戦でトリを務めているのに、村田英雄は紅白出場すら出来なかったのです。「やはり自分には歌謡界には向いていない、浪曲の世界に戻ろう。」と決心し、歌謡曲の師匠である古賀政男に歌謡界をやめたいと申し出ます。それを聞いた古賀政男は烈火のごとく激昂し、村田英雄を殴り蹴り、破門同然で古賀政男から縁を切られてしまいました。
村田英雄と古賀政男のやりとりの一部始終を横目で見ていた作曲家がいました。失意の村田に手を差し伸べたのは、美空ひばりの「みだれ髪」でよく知られている船村徹でした。浪曲で鍛え上げた村田の重厚な声は古賀政男の曲調には合わないと、船村は考えていました。その村田に船村から贈った曲があの「王将」(作詞:西条八十)でした。王将は瞬く間に大ヒットします。最終的には300万枚を超え、戦後はじめてのミリオンセラーになったと言われています。しかも、この王将は1961年(昭和36年)と1962年(昭和37年)の2年連続NHK紅白歌合戦で歌われました。この船村徹の「王将」をきっかけに村田英雄は三波春夫と肩を並べる存在になりました。
歌謡界で成功を収めた村田の公演会に、それを見守るひとりの男性の姿がありました。歌謡界に村田を引き入れた古賀政男です。古賀政男は自分が村田を歌謡界へ誘った責任を感じていたのでしょう。成功した村田の姿を見て、古賀政男は安心して帰って行ったと言います。
(浦安湯屋ともちゃんの「村田英雄伝説」より)
3日目、9月21日(月)はいよいよ目的の黒部五郎岳に登ります。天気もいいようです。私たちと同じ乾燥室に泊まった方はお弁当を頼んで午前4時前に小屋を出ていき、私たちがカールに差し掛かった頃に下山してきました。私たちは午前5時30分に小屋を出発しました。
同じカール地形でも、涸沢カール、千畳敷カールとはまたちがった風景です。
いたるところに紅葉が点在し、黒部五郎岳は短い秋の訪れを待っているようです。
雪渓も残っています。
カールから尾根への急登を登って、肩に取り付きました。私の後ろには若いお嬢さんが付いて来ており、トミーお地蔵さんが「落石させないように。」との呼びかけに、若いお嬢さんは「は~い。」と返事をしていました。人生の賢者であるお年寄りと一緒に行くことも勉強になりますが、若い人と一緒に登ることも楽しいものですね。
そして、ついに山頂に到着。標高2839 m。到着と同時にガスも晴れていきました。いい歳りょうちゃん、日本百名山98座目になりました。これで北アルプスの日本百名山は全て登ったことになります。
山頂から見たカール地形。
登ってきた急登の登山道がはっきり見えました。
山頂には多くの登山者がいました。鏡平小屋で隣にいた大阪の親子も来ており、おばさんは「もう死んでもエエ。」と言っていました。トミーさんは「じゃあ、死ねよ。」と心の中で言っていました。悪い人です。
肩から見た山頂部。
北俣山方面、昨年はこの道を通って黒部五郎岳に来る予定でしたが、今日、青空の下、カールを歩いての登山は最高でした。
尾根筋からカールへ降りてくるときに、落石がありました。20~30 cmくらいの石が2つも落ちてきました。たぶん上にいる人が落としたんでしょう。石を落とさないように歩くことも大切です。
黒部五郎のカールには巨岩、奇岩が多く点在していました。
午前9時45分に黒部五郎小屋に戻ってきました。コースタイム4時間に対して、4時間15分で戻ってくることができました。
今日は三俣蓮華岳を越えて、双六小屋まで戻ります。あの急登を登ると考えただけでウンザリしました。
三俣蓮華への山腹から見た黒部五郎岳、秋の装いです。
三俣蓮華へのトラバース路。左側は結構切れ落ちています。
三俣蓮華から双六へは中間道を通りました。丸山への登りはきつく感じました。
まだまだ道のりは長いです。
双六岳への分岐までやってきました。
双六小屋でカレーとおでんをつまみに、北アルプス百名山完登のお祝いをしました。それにしても双六小屋も混んでいました。
4日目最終日、9月22日(火)は新穂高温泉まで下山します。最終日もいい天気でした。9月下旬になると双六小屋の前からは日の出を見ることはできませんでしたが、朝焼けが今日も天気がいいことを教えてくれました。
テント場前でピースをするトミーさん、変なお地蔵さんではありません。
弓折岳への尾根から見た槍穂高連峰。
尾根筋でご来光を待っているようです。
槍穂高連峰から太陽が昇ってきました。
雪田越しに焼岳、乗鞍が見えてきました。
鏡平小屋ではかき氷を売っていました。
再度鏡池から槍穂高連峰を拝みました。
下りは常に笠ヶ岳を見ながらの下山でした。
秩父沢、ここで槍も見納めになります。
登山口に戻ってきました。
まだまだ終わりではありません。長い林道を歩き、新穂高温泉で飛騨牛コロッケカレーを食べました。
そして園地近くの駐車場所まで戻ってきました。新穂高温泉前の駐車場は駐車できるようになっていました。
ひがくの湯で入浴し、松本駅まで帰ってきましたが、あずさ号は最終便まで満席だったため、長野まで行き、新幹線で東京まで帰ってきました。写真はしなの線車窓からの姥捨て山周辺の風景です。
次回は八幡平・岩手山の報告をします
# by ryott-ryott | 2015-09-28 22:08 | 黒部五郎岳