寝待月の夜の酒宴
茴香(ういきょう)の夕月青し百花園
川端芽舎
今週の火曜日は、大井町湯屋の人気インストラクターのレッスンに出るため、スタジオ前で並んで待っていたら、人気インストラクターが「毎日、10人くらい、同じ時間に同じ人に会う」と言っていました。私なんか、10人どころじゃありません。もうひとつ上の桁の数の人間に、同じ時間に同じ場所で会っていると思います。大体、毎日家を出る時間が同じなら、会社に到着する時間もほとんど変わりません。だから途中の場所もほとんど同時刻に通過します。毎日を同じ生活パターンで過ごしている人がたくさんいるんですね。
りりこ、こんなに赤くなりました
7月11日から大井町線は溝の口まで延びました。私が子どもの頃は長津田まで行っていましたが、いつの間にか二子玉川までとなり、田園都市線と分断されてしまいました。
大井町阪急百貨店跡地から見た風景。
(天使にラブソングを/On Maria.)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻「北条政子」、本来なら「源政子」と呼ばれるはずですが、このころはまだ「妻問い婚(つまどいこん)」の時代で、夫が妻の家を訪れる形式のため、妻はまだ実家の姓を名のる習慣だったといいます。現在は妻が夫の家に嫁入りする「嫁入り婚」は政子の死んだあと、鎌倉後期になってからと言われています。
政子は頼朝の死後、剃髪をして「尼将軍」と呼ばれ、前将軍夫人、新将軍の母として、幕府内の実力者として君臨しました。「北条政子」と聞いただけで、気性の強い女のイメージが浮かびます。父がすすめた結婚を嫌い、婚礼の夜、逃げ出して流人であった頼朝のもとへ駆け落ち同然で走ります。
鎌倉幕府創立後、将軍夫人として誉高く、義経の愛妾静御前を助けた話も有名です。
夫の死後、頼家、実朝、二人の息子を将軍にたてながらも非業の死を遂げさせる原因をつくったのも政子自身でした。実朝が自分の甥によって殺された後、鎌倉幕府を倒すことを虎視眈々と狙っていた後鳥羽上皇から鎌倉幕府に与(くみ)するものは朝敵とされながらも、武者たちの前で大演説をして、承久の乱で上皇軍を打ち破ります。政子の話を聞いた武将たちは、感極まって、はらはらと落涙したと言います。そして、最後には北条家に将軍家を継がせています。波乱万丈の人生を歩んだ女性の一人でしょう。
「吾妻鏡」には嘉永元年(1225年)7月11日、北条政子が69歳で死んだことが簡単に記されています。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)
(天使にラブソングを/I will follow him.)
7月11日土曜日はいつものように大井町湯屋で裕太郎エアロ、トレーニング、大暴れアクアをやりました。徐々にではありますが、左足が上がるようになりました。しかし、まだ往時の出来ではないので、腕で水をたくさん撒き散らしました。
(天使にラブソングを/The Teacher Song)
そして、夜はじゃんけんぽんへ。この日、お店では日本酒の試飲会がありました。
また7月11日は大井町湯屋仲間のプールの佐藤さんのお誕生日でもありました。佳子さんに品物を選んでいただいて、みんなで贈り物をしました。当年とって68歳。ご本人は「わかりづらいので古希(70歳)でいいよ」とおっしゃっていましたが、プールで何キロもすいすいと泳ぎ、趣味は旅行で世界中を飛び回る元気な、もうすぐ70歳です。来週も地中海へご旅行に行くそうです。
白のタンクトップとレギンスを私たちからプレゼントしました。今は「ももひき」のことを「レギンス」と洒落た言い方をするそうですね。英語のようです。そして、柄もさまざまであり、佳子さんが可愛い柄のももひき、レギンスを履いていました。
試飲会は大井町湯屋グループに加え、試飲会仲間の第一三共の石井ちゃんグループ、大井競馬場の厩務員さんと多士済々。にぎやかに寝待月の夜が更けていきました。
大井町湯屋の北条政子。智ちゃん、プールの佐藤さん、佳子さん。
お料理の数々。
議論白熱。佐藤さんの手が早すぎて、写りません。
酔っ払っている人たち。
by ryott-ryott | 2009-07-12 12:25 | じゃんけんぽん