小田原では富士山が見えませんヽ(^o^)丿

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11月2日、前々から見たいと思っていた映画「カムイ外伝」を見て来ました。公開から既に1ヵ月以上経ってしまっているので、いつ終ってしまうか心配でしたがようやく見ることが出来ました。しかし、1日1回だけの上映であり、お客さんは私を含め5人しかいませんでした。

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原作者の白土三平は画業50周年だそうです。このカムイ外伝がテレビでアニメとして放映されていたのは昭和44年で私が5歳の時ですから、おそらく私が見ていた「カムイ外伝」は再放送されたものでしょう。原作が実写映画と違うところは、悪人と善良な人の顔がはっきり違うところです。そして、貧しさゆえに、生きるために伊賀の里で下忍となり、しかしながら、殺戮の日々に疑問を感じ、再び生きる道を探していく。この作品は生きるために何が大切かを教えていると思います。


(倖田來未/Alive、映画「カムイ外伝」主題歌)

貧しさゆえに忍びとなり、自由を夢見て忍びを抜けた、一人の男。その名はカムイ。
しかし、忍びを抜けた者には死んでもらう。それが忍びの掟であった。ただ生き抜くために闘い続けるしかなかった。

松山藩藩主・水谷軍兵衛の愛馬・一白を漁師の半兵衛が襲い、その右前脚を切り取り、持ち去ってしまう。カムイは偶然にも半兵衛の逃亡の手助けをするが、嵐の中、島へ向かう途中、海へ突き落されてしまう。
カムイは島の浜に打ち上げられ、半兵衛の家族たちの看護により、一命をとりとめた。半兵衛の妻、お鹿は14年前に今に自分と同じように忍びを抜け、追忍から命を狙われていたスガルであった。実は半兵衛はカムイがスガルと同じ匂いがすることを感じとり、嵐の海に突き落としたのであった。

半兵衛は馬の蹄で疑似餌を作り、カムイとともに漁に出た。そして、カムイにこのまま島で漁師となって、スガルの秘密も持って行ってくれと頼む。
しかし、その後、半兵衛は藩主の愛馬を殺した罪で捕えられてしまう。カムイとスガルは処刑寸前の半兵衛を刑場から間一髪で救い出す。

船で海に逃げたカムイと半兵衛一家はようやく島に辿り着く寸前に鮫に襲われるが、鮫を捕ることを生業とする集団に助けられる。集団の頭、不動もまた抜忍、食べ物と水を引き換えに鮫退治を島民に約束する。島民も不動を信頼し、カムイも徐々に不動を信じはじめるが、島に戻ったカムイが見たものは、毒殺された島民の死体であり、その中に半兵衛一家の姿もあった。実は不動は抜忍ではなく、スガルやカムイを消すべく放たれた追忍であった。穏やかな日々をつかの間でも過ごした半兵衛一家を失い、怒りに震えるカムイと追認・不動との死闘が始まった。果たして、その結末は・・・・・。



(水原弘/忍風 カムイ外伝)


ふらんすへ行きたし思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめてあたらしき背広をきて
きままなる旅に出でてみん。
みずいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

詩人萩原朔太郎の有名な作品「旅上」です。

彼は明治19年(1886年)11月1日に、群馬県前橋市の開業医の長男として生まれました。学生時代は主として短歌に熱中し、大正のはじめ北原白秋、室生犀星を知ってから詩作に転じました。
大正5年(1916年)、犀星たちと詩誌「感情」を発刊し、次第に反自然主義の立場をとる、新しい抒情精神を主張して行きました。
大正6年(1917年)2月に出された。彼の代表作、処女詩集「月に吠える」は、その意味では転換期の結晶といえる作品でしょう。
森鴎外、三好達治、野口米次郎、岩野泡鳴など、当時の大家から賛辞が寄せられ、文壇からも注目を集めました。彼はバイロンの故知にならって「私は一夜にして有名詩人になった」と述懐していますが、その通りだと思います。
大正12年(1923年)1月、第二詩集「青猫」が出されましたが、これも口語自由詩の極致といわれ、特に、近代知識人の不安定で虚無的な生の倦怠を歌いあげたものとして、高い評価が与えられています。
晩年、彼は東京アマチュア・マジシャンズクラブに入会しました。
昭和17年(1942年)5月11日、56歳で亡くなりました。郷里前橋市敷島公園内に「望郷」の詩碑が建っています。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)



(カムイ外伝 予告編)

そして、こんな映画も見て来ました。1日2本。こちらの方は劇場の3分の1くらいお客さんが入っていたでしょうか。


(「風が強く吹いている」予告編)

この映画の影響ではありませんが11月3日文化の日に小田原へ行きました。御幸の浜、明治6年に明治天皇が皇后と避暑に訪れたそうです。この日は満月。満月そのものは明るすぎて、写真におさめることが難しいのですが、月の出16:41、日の入り16:45、まだ明るいうちに月が三浦半島の方から出てくることを考えると、低い位置なら満月が撮影できるのではないかと思い、わざわざ東海道線に乗り、小田原の宿まで出かけて行きました。11月3日は快晴、川崎の多摩川の河川敷からも冠雪した富士山を車窓越しに見ることが出来ました。これなら富士山も写真撮影できると思っていたのですが、小田原の前の國府津までは見えていた富士山が、小田原に入ると手前の山に隠れて見えなくなってしまいました。小田原では富士山を見ることはできないことがはじめてわかりました。富士山はさらに三島の宿まで足を延ばさないと見ることができないようです。

冒頭の写真は御幸の浜で撮影した満月です。しかしながら、やはり満月は撮るのが難しい。

小田原城
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菊の品評会
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大島が見えました
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by ryott-ryott | 2009-11-06 00:22 | movie