
旅行・地域

ブログが実態に全く追いついておりません。2月の終わりに大洗への転勤が決まり、3月は2回ほど引越しのために、大洗で住むアパートへと出向きました。私の場合は、東京に年寄りを残しての転勤のため、洗濯機、冷蔵庫などを新しく買って、大洗の住まいへと送りましたが、安い洗濯機はうるさいですね。洗濯機をまわすたびに、隣から苦情が来るのではないかと思っています。

引越しのついでに、折角なので水戸の偕楽園に寄って、東京に戻ってきました。この日は平日だったのですが、たいへんな数の見物客が訪れていました。世の中はお休みだったのでしょうか。

千波湖のほとりを歩いて偕楽園に行きました。

青空に梅の花がよく映えています。





ニセ黄門と記念撮影をしていました。


しだれ梅。しだれ桜はよく見かけますが、しだれ梅は中国で品種改良されて作られたそうです。中国整体の李先生に教えてもらいました。

好文亭から見た景色。千波湖の周辺も梅が満開でした。




トサミズキ。

ボケの花。

常磐神社に寄って、御朱印をもらって帰ってきました。


(第88回安曇野歌声喫茶/ねがい)
ねがい(作詞:広島市立大州中学校3年生有志、作曲:たかだりゅうじ)
もしもこの頭上に 落とされたものが
ミサイルでなく
本やノートであったなら
無知や偏見から 解き放たれて
君は戦うことを やめるだろう
もしもこの地上に 響き合うものが
爆音ではなく 歌の調べであったなら
恐怖や憎しみに とらわれないで
人は自由の歌を 歌うだろう
もしもこの足元に 植えられたものが
地雷ではなく 小麦の種であったなら
飢えや争いに 苦しまないで
共に分かち合って 暮らすだろう
もしもひとつだけ 願いが叶うならば
戦争捨てて 世界に愛と平和を
この願いかなうまで 私たちは
歩み続けることを やめないだろう

いつもこの欄では小学館「一日一話人物歳時記」から引用していますが、今日はこれまで何回か掲載した「村田英雄伝説」を載せます。この村田英雄伝説は2012年10月に九州の日本百名山に行ったときに浦安湯屋のともちゃんから聞いた話を文字に起こしたものです。年末に勇才さんに行ったときに、隣に座っていた年配の女性と歌謡曲の話になり、私が話した「村田英雄伝説」に大変な興味と感動を示して下さいました。再度、村田英雄伝説を掲載します。
その昔、終生のライバルと言われた二人の浪曲師がいました。村田英雄と三波春夫です。三波春夫は1923年7月19日に現在の新潟県長岡市に生まれ、1939年16歳のときに浪曲師としてデビューします。その後、戦況悪化により三波春夫自身も1944年に陸軍に入隊し、満洲へ渡ります。三波春夫は満州で敗戦を迎え、ハバロフスクの捕虜収容所に送られて、4年間のシベリア抑留生活を送ることになりました。1949年に帰国し、浪曲師として再び活躍をはじめます。
一方、村田英雄は1929年1月17日、現在の福岡県うきは市に生まれ、その後、唐津市へ移り、5歳のときに浪曲師酒井雲に弟子入りします。その後、村田英雄は13歳で真打に昇進し、14歳で酒井雲坊一座の座長も務め、九州の地方公演で活躍を続けます。
二人の浪曲師、三波春夫と村田英雄は浪曲の全国大会でたびたび激突することになります。しかし、いつも1位に輝くのは村田英雄であり、三波春夫は常に2番。三波はどうしても村田に勝つことはできませんでした。
浪曲の世界では村田に勝つことが出来ないと悟った三波は、1957年に芸名を「三波春夫」と改めて、新規一転し歌謡界へとデビューします。するとどうでしょう、出す歌はすべて大ヒット。飛ぶ鳥を落とす勢いです。「お客様は神様です!」という有名なフレーズでも知られる通り、三波の天性の明るさが多くのファンを魅きつけました。
三波の歌謡界での活躍を見ながら、村田は日本一の浪曲師を夢見て東京へ上京します。そして村田にも転機がやってきます。今や歌謡界のトップにまで上り詰めた三波春夫に歌で勝負できるのは村田しかいないと考えていた人物がいました。その人こそ、あの古賀政男です。古賀政男からの誘いに対して、最初、村田はためらいました。村田はすでに結婚もしており、果たして歌謡界でやっていけるのか迷ったそうです。浪曲の世界では常に自分がトップに君臨し、三波春夫にその座を譲ることがなかった、その三波が今や歌謡界で大活躍していることを目の当たりにし、ついに古賀政男からの歌謡界への誘いを受けることにしました。
1958年、古賀政男とのコンビで最初に出したのが「無法松の一生」です。しかし、考えていたとおりにはうまくいかないもので、「無法松の一生」はまったくヒットしませんでした。三波春夫とは対照的に、村田英雄はヒット曲には恵まれませんでした。三波春夫が毎年のようにNHK紅白歌合戦でトリを務めているのに、村田英雄は紅白出場すら出来なかったのです。「やはり自分には歌謡界には向いていない、浪曲の世界に戻ろう。」と決心し、歌謡曲の師匠である古賀政男に歌謡界をやめたいと申し出ます。それを聞いた古賀政男は烈火のごとく激昂し、村田英雄を殴り蹴り、破門同然で古賀政男から縁を切られてしまいました。
村田英雄と古賀政男のやりとりの一部始終を横目で見ていた作曲家がいました。失意の村田に手を差し伸べたのは、美空ひばりの「みだれ髪」でよく知られている船村徹でした。浪曲で鍛え上げた村田の重厚な声は古賀政男の曲調には合わないと、船村は考えていました。その村田に船村から贈った曲があの「王将」(作詞:西条八十)でした。王将は瞬く間に大ヒットします。最終的には300万枚を超え、戦後はじめてのミリオンセラーになったと言われています。しかも、この王将は1961年(昭和36年)と1962年(昭和37年)の2年連続NHK紅白歌合戦で歌われました。この船村徹の「王将」をきっかけに村田英雄は三波春夫と肩を並べる存在になりました。
歌謡界で成功を収めた村田の公演会に、それを見守るひとりの男性の姿がありました。歌謡界に村田を引き入れた古賀政男です。古賀政男は自分が村田を歌謡界へ誘った責任を感じていたのでしょう。成功した村田の姿を見て、古賀政男は安心して帰って行ったと言います。
(浦安湯屋ともちゃんの「村田英雄伝説」より)


さて本論の山行ですが、4月4日(土)~5日(日)に転勤後初めての山行として、茨城県日立市十王町にある茨城百名山の竪破山(たつわれさん)と土岳に行きました。いつものようにいい歳、りょうちゃんが写っている写真はすべてトミーさんのブログからもらいました。

源氏の頭領の八幡太郎義家が奥州征伐で立ち寄り、戦勝祈願したところ、その晩、夢の中に黒坂命(クロサカノミコト)が現れて、太刀を義家に授けました。義家がその太刀を一振りすると巨岩が真っ二つに割れたと言われています。その割れた巨岩は太刀割石と言われ、その太刀割石が転化して、竪破山という名前になったそうです。

義家伝説でもわかるように、この竪破山には多くの奇岩が存在していました。写真は竪破山の登山口です。たいへんわかりにくいところに位置しており、とても一人では来ることができません。

不動石。石の上にお不動様が祀られています。


烏帽子石。義家がかぶっていた烏帽子に似ていることから、この名前がつけられました。


畳石。


山の中に神社がありました、黒前神社。義家の夢に現れた黒坂命(クロサカノミコト)が祀られています。このクロサカノミコトも蝦夷征伐のためにこの地に戦勝祈願に立ち寄ったとされています。見事に蝦夷を平定後、お礼参りに再び立寄りますが、病気にかかって命を落としてしまいました。その後、この山は黒前の山と呼ばれ、現在の竪破山の前身になっています。崇神天皇の時代の出来事で、ほとんど神話の世界です。

これが伝説の太刀割石です。直径7 mあるそうです。丸い巨岩を二つに割ったように見えます。あの水戸黄門がこの地を訪れて、丁寧に祀ったそうであり、江戸時代は石の上には簡単に登ることができなかったそうです。罰当たりの山旅クラブの人たちは石の上にあがって記念写真を撮りました。



兜石。

黒前神社の前を通って山頂へ向かいます。




竪破山の山頂に到着。標高658 m。山頂は樹林に囲まれているため、展望台があり、周囲を見渡せるようになっています。この日は薄曇りで、かすかに那須連峰が見えました。



舟石。

神社の門の中を覗き込んだトミーさんが叫び声をあげて、後ろに後ずさりしていました。中に仁王像があり、睨みつけられて、驚いたようです。普段、相当に後ろめたいことをしているんですね。



この日は茨城県立国民宿舎の鵜の岬に宿泊しました。この国民宿舎は稼働率98%で、なかなか予約が取れないそうです。トミーさんがお正月に朝から電話をかけつづけて、ようやく1部屋だけ予約が取れたそうです。



宿舎の前にある碁石が浜。碁石はありませんでした。



料理は幾つかランクがあるそうです。山旅クラビでは下から2番目の料理を頼んだとのことでした。みんなで乾杯しました。




(あづみ野うたごえ喫茶/わさびの花の咲く頃)
わさびの花の咲く頃(作詞、作曲:掘六平)
わさびの花は 白い十字架
初夏の風に 笑ってなびく
まだ雪のこる アルプスの
すそ野は田植えの 今盛りなり
こんなところさ 俺たちの村
腰の痛さに ふっと顔上げりゃ
いやにぼんやり 有明山よ
雪に浮き出す 蝶ヶ岳
小腹すいたぞ もうお茶の頃
こんなところさ 俺たちの村
初夏の長日も やがては暮れる
あちらこちらは 夕餉の明かり
泥にまみれて 汚れちゃ居るが
うちに帰れば おしきせもある
こんなところさ 俺たちの村
(ダーク・ダックス/銀色の道)
銀色の道(作詞:塚田茂、作曲:宮川泰、歌:ダーク・ダックス、ザ・ピーナッツ)
遠い 遠い はるかな道は
冬の嵐が 吹いてるが
谷間の春は 花が咲いてる
ひとり ひとり 今日もひとり
銀色のはるかな道
ひとりひとり はるかな道は
つらいだろうが がんばろう
苦しい坂も 止まればさがる
続く 続く 明日も続く
銀色の はるかな道
続く 続く はるかな道を
暗い夜空を 迷わずに
ふたりの星よ 照らしておくれ
近い 近い 夜明けは近い
銀色の はるかな道
はるかな道 はるかな道

2日目は花貫渓谷から土岳に登りました。

これが有名な名馬里ヶ淵。なんで、こんな名前が付いたのでしょうか。この淵の主は大蛇だったそうです。その昔、この川下の集落の家で飼われていた馬はよく、この淵に遊びに来ていました。その馬が子馬を産みました。子馬は馬小屋で寝ることはなく、木の上にのぼったり、屋根の上で寝ていたことから、村人たちは「これは馬の子ではなく、大蛇の子だ。」と思うようになり、村にいずれ大きなわざわいをもたらすにちがいないと考え、この子馬を淵に沈めて殺してしまいました。すると空がたちまち黒い雲におおわれて、激しい風雨が続き、大洪水が発生して、集落は村人もろとも流されてしまいました。それ以来、この淵は名馬里ヶ淵と呼ばれています。


不動の滝で釣りをしている人がいました。



釣り橋を渡り、いよいよ土岳の登山口へ。




最初は整備されたハイキングコースかと思いましたが、徐々に勾配もきつくなり、土岳という名前に似つかわしくない岩場の急登もありました。




足元を見ると、大きなイワカガミがたくさん咲いているではありませんか。トミーさんのブログではイワウチワだと記載されていましたが、大きなイワカガミの大群落が山の斜面一面に広がっていました。



馬酔木もたくさん咲いていました。


午前11時に土岳山頂に到着。この天気なので何も見えませんでしたが、イワウチワの大群落と馬酔木を見ることができ、満足の山行でした。下山後は国民宿舎鵜の岬の日帰り温泉に入浴し、旧スーパーひたちに乗って東京に帰ってきました。







本田美奈子/恋のバカンス
作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、歌:ザ・ピーナッツ
ためいきの出るような
あなたのくちづけに
甘い恋を夢みる
乙女ごころよ
金色にかがやく
熱い砂のうえに
裸で恋をしよう
人魚のように
陽にやけた ほほよせて
ささやいた約束は
二人だけの秘めごと
ためいきが出ちゃう
ああ恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめてあなたを見た
恋のバカンス
陽にやけた ほほよせて
ささやいた約束は
二人だけの秘めごと
ためいきが出ちゃう
ああ恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめてあなたを見た
恋のバカンス
次回は歩の会・妙義山さくらの里を報告します








▲ by ryott-ryott | 2015-05-05 09:47 | 茨城百名山、竪破山