旅行・地域






富士登山のあとは、よしこさんは那須岳へ、私は出羽三山へ、吉田さんのご同僚のナースの方は屋久島へ行くなど、登山・トレッキングがちょっと流行っています。


よしこさんは次回の登山を決めているようであり、東京・奥多摩にある「雲取山」へ1泊で登山して、その山小屋でクリスマスパーティーを行う企画が倉持さんの会社で計画されているそうであり、皆さんをお誘いしていました。
私の方は登山ではありませんが、11月の勤労感謝の日の飛び石連休に鹿児島へ行く予定です。鹿児島は9月に仕事で出張し、空の青さと桜島ともう一度見てみたいと思ったからです。また「出水(いずみ)」はロシアと中国から1万羽以上の鶴が飛来します。その光景を写真に収めたいと考えています。


(やしきたかじん/東京)
東京(作詞:及川眠子、作曲:川上明彦、歌:やしきたかじん)

あんたとなら
いつ死んでもかまわへん
わすれないで
そんな女いたことを
見上げた空さえも
冷たい色やけど
あたしが本気で惚れたひと
そう生まれた街やから
いとしさも 憎しみも
すべてすべて ぎゅっと抱きしめ
祈るように 今日も灯が
ともる東京
夢だけ見て
生きてるようなあんたやった
いつかあたし
待つことにも慣れてたよ
くすんだ風のなか
肩よせ暮らしたね
誰にも似てへんひとやけど
本物の愛をくれた
悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京
痛いほど好きなのに
なんでなんで別れたんやろ
いまもまだ 胸の奥
揺れる東京
悲しくて 悔しくて
泣いて泣いてばかりいたけど
かけがえのないひとに
逢えた東京

秘蔵800年といわれる、藤原俊成、定家、為家など、当時の宮廷歌壇で活躍した人々の書や典籍、古文書類を、ゆかりの冷泉家が公開し、その貴重な文化財を保存するために、「冷泉家時雨亭文庫」が設立されたのは、昭和55年(1980年)4月1日です。
冷泉家は「御子左家(みこさけ)」といわれる和歌宗家の流れをくみます。御子左家とは、醍醐天皇の皇子兼明親王が、皇子として左大臣になったとき、御子左と称しました。その親王の旧宅に、関白藤原道長の子長家が入り、和歌の指導をつとめたことから、和歌宗家を御子左家というようになりました。
為家のとき、鎌倉幕府の将軍、歌人で知られる源実朝から、歌の指導のお礼に播磨国細川荘を与えられました。
為家は最初この土地を長子為氏に相続することを決めました。ところが後妻に入った阿仏尼との間に、為相(ためすけ)、為守(ためもり)の二人が生まれました。為家55歳のときの子です。為家は約束を破って細川荘の土地を為相に譲ることを決めて亡くなりました。
当然、相続争いが起こります。阿仏尼は、鎌倉幕府に決着をつけてもらうべく、弘安2年(1279年)10月16日、都を旅立ちました。このときの東下りを旅日記にしたのが、出発の日にちなんでつけた、有名な『十六夜(いざよい)日記』です。なかなかの名文です。
彼女は鎌倉に4年滞在しましたが、折悪しく「元寇」の騒ぎにぶつかり、むなしく京都にもどり、間もなく亡くなりました。そのため為家のあとは、二条家(為氏)、京極家(為教)、冷泉家(為相)と3つに分かれ、対立を深めますが、正和2年(1313年)、幕府が為相に相続を認めます。
かくて冷泉家が隆盛になり、「歌の家」として歴史が受け継がれて今日にいたったわけです。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

(五木ひろし/契り)
契り(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、歌:五木ひろし)

あなたは誰と ちぎりますか
永遠の心を 結びますか
波のうねりが岸にとどく
過去の歌をのせて
激しい想いが 砕ける涙のように
緑は今も みずみずしいか
乙女はあでやかか
人の心は鴎のように
真白だろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに
朝の光が海を染める
生きる夢に満ちて
まぶしい願いが きらめくいのちのように
流れは今も 清らかだろうか
子どもはほがらかか
人はいつでも桜のように
ほほえむだろうか
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに
愛するひとよ 美しく
愛するひとよ すこやかに


アレグロ・ピアット




前菜


グリーンサラダ

ピッツァ


パスタ



前沢牛のリゾット

プディング



にほんブログ村








▲ by ryott-ryott | 2010-10-17 15:15 | 富士登山打ち上げ