旅行・地域

(掘六平/わさびの花の咲く頃)
わさびの花の咲く頃(作詞、作曲:掘六平)

わさびの花は 白い十字架
初夏の風に 笑ってなびく
まだ雪のこる アルプスの
すそ野は田植えの 今盛りなり
こんなところさ 俺たちの村
腰の痛さに ふっと顔上げりゃ
いやにぼんやり 有明山よ
雪に浮き出す 蝶ヶ岳
小腹すいたぞ もうお茶の頃
こんなところさ 俺たちの村
初夏の長日も やがては暮れる
あちらこちらは 夕餉の明かり
泥にまみれて 汚れちゃ居るが
うちに帰れば おしきせもある
こんなところさ 俺たちの村

6月最終土曜日は毎年恒例のゲンダマ会へ行ってきました。ゲンダマ会とは分析化学研究室の指導教官であった佐藤弦先生のお名前と、その当時、大流行していいた剣玉を合わせて命名された同窓会の名前です。


今年は3月11日に東日本大震災が起こり、その後何もかもが自粛されてしまい、果たしてゲンダマ会が例年通り開催されるのか気になっていたところでしたが、無事に開催されました。これは分析化学研究室の先生方、学生さんの努力のお陰だと思います。


そして今年から研究室には、化学科ではない新生学科に入学した学生さんたちが卒業研究生として分析化学研究室に入って来ていました。そして彼らはみんな平成生まれです。ついに平成生まれの学生さんたちが4年生として入って来る時代がやってきたのだなと思いました。

江戸時代の人がいなくなり、明治時代の人がほとんど居なくなっていくように、昭和生まれもまた時間の流れに淘汰されていきます。卒業してしまうとなかなか同窓会に足を運べなくなるのが実情のようですし、健康上の問題もあるでしょう。しかし、その中で私たちを指導して下さった三人の先生がたはとてもお元気で、私たちが学生のときとまったく変わっていませんでした。






特に弦さんは最近、ぎょうせいという聞き慣れない出版社から「化学熱力学への誘い生命科学・化学を学ぶ人たちへ」という熱力学の入門書を執筆されたそうであり、ゲンダマ会で宣伝していました。ゲンダマ会の杉浦会長が「よく寝れる本」と揶揄する場面もありましたが、熱力学の特徴は時間の流れをもとに戻すことができない唯一の学問であり、他の時間をもとに戻して考える物理学とは違うということをおっしゃっていました。そして生きているということは、まさに時間の流れを元に戻すことができないという状態であり、「生きていること」を学ぶ学問が熱力学であるという名言をお話になっていました。


大学の売店で販売されているというので売店に行きましたが、もう閉まっていました。


(中島みゆき/宙船)
宙船(作詞、作曲:中島みゆき、歌:中島みゆき)
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか
その船は今どこで ボロボロに進んでいるのか
流されまいと逆らいながら
船は挑み 船は傷み
すべての水夫が恐れをなして逃げ去っても
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
その船は自らを宙船(そらふね)と 忘れているのか
その船は舞い上がるその時を 忘れているのか
地平の果て 水平の果て
そこは船の離陸地点
すべての港が灯りを消して黙り込んでも
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

ラフカディオ・ハーン。日本に帰化して小泉八雲と名乗りましたが、この人ぐらい異国人でありながら、日本を愛し、日本の思想、風俗、歴史、伝統芸能に精通し、それを明治時代に世界へ紹介してくれた人は、他にいなかったように思います。
「知られざる日本の面影」「日本雑記」などの評論の他、「骨董」「怪談」など、すぐれた短編小説を海外で発表し、大変な反響を呼びました。
特に「怪談」のなかの一遍“耳なし芳一のはなし”は有名で、戦前の国語の教科書に載りましたし、戦後は映画にもなりました。
ハーンは1850年6月27日、ギリシャで生まれました。父はアイルランド系英国人、母はギリシャ人でした。父母が離婚したので、単身アメリカに渡り、新聞記者をしながら東洋の研究、特に日本について勉強しました。明治23年、彼が40歳のとき来日しました。ニューオリンズの万国博覧会で知り合った文部省事務官服部一三の世話で、松江市の旧制中学、師範学校の英語教師として、松江に赴任したのが、彼の生涯を決定づけました。
この土地で、松江藩士の娘、小泉節子と結婚しました。妻の姓と、出雲の故事が気に入って「小泉八雲」と姓名をかえ、日本に帰化したのです。その後、五高(熊本)、東大、早稲田大学で教鞭をとりながら。作品を書き続け、明治37年9月26日、東京の自宅で亡くなりました。54歳でした。彼の功績は、日本を海外に紹介しただけではなく、逆に欧米の文学を日本に紹介した点も見逃すことはできません。松江市には、彼が新婚時代を過ごした武家屋敷が、そのまま記念館として保存されています。
(小学館「一日一話人物歳時記」より)

(コブクロ/あの太陽が、この世界を照らし続けるように。)
(映画「岳」予告編)
あの太陽が、この世界を照らし続けるように。
(作詞、作曲:小渕健太郎)

どんな悲しみにも ひとつの意味を注ぐように
世界中の夜に 朝を連れてくる太陽
ぼくは彷徨ってた 生きる意味を探して
君に出逢うまでの僕じゃ あの壁は越せない
この手は君を守るため この瞳は君を探すため
こころは君を愛すため この命は君と生きるため
ぼくに生きる意味をくれた その微笑み
人ごみに紛れて 逃げ出すのは容易くとも
一人きりの夜に 孤独から逃げ出せない
ガラス玉のような心を抱え生きてる
落とすたびに砕け散った 涙を忘れない
転がりながら辿り着いた 今がいつも君だけの頂上
心のままに生きてゆけば 時には人はぶつかり合うけれど
その魂に刻まれた模様はきっと 美しきヒビとなる
どんな命も輝いてる
あの太陽が、この世界を照らし続けるように
この手は君を守るため この瞳は君を探すため
こころは君を愛すため この命は君と生きるため

理工学部には化学科のほかに物理学科、数学科、機械工学科、電気工学科の5つの学科がありましたが、統合されて新しく物質生命理工学科、機能創造理工学科、情報理工学科の3つの学科ができました。2008年のことだそうです。その前年のゲンダマ会で清水先生が理工学部から化学科がなくなってしまうという報告をされて、涙を流している卒業生、研究室の学生さんがいたことを覚えています。

残念なことに理工学部が有明に移転する話も、7号館の横に理工学部の新校舎を建てる話も今は立ち消えになっているそうです。清水先生は、理工学部の新しい校舎を建てるために、統合しなくてもよかった5学科を統合したのにもかかわらず、新しい校舎を建てる話がなくなってしまったことに対して、「理事長はみんなを騙して嘘をついた!」と言って、大変にご立腹でした。私もそう思います。


以前にも報告しましたが池内先生は退職後は絵を描いたり、山に行ったりの悠々自適の晴耕雨読の生活を送られているそうです。何とも羨ましい限りです。私も早く退職したいと思いました。そして今度一緒に山歩きをしましょうと約束しました。先生はもう年なのでたくさん歩けないとおっしゃっていましたが、私が明日、谷川岳に行く予定であると話すと、谷川岳はこんな山であるとお話してくださいました。


(小柳ルミ子/星の砂)
星の砂(作詞:関口宏、作曲:出門英、歌:小柳ルミ子)

二度と出来ない恋を捨てあなた遠く
離ればなれになってゆくの 今つらいわ
嫁ぐ日岬にひとりたたずみ君住む島に
別れを告げる
凪いで凪いでまぶしいサンゴの島が
にじんで落ちて 星の砂
過ぎし日 二人は海辺に遊び
変わらぬ愛を 夕陽に祈る
いつかいつか 二人は運命にさかれ
私は遠く 石垣へ
髪にかざした ブーゲンビリア
そえぬ運命に赤く咲く
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい 星の砂
ルルル・・・・・ルルル・・・・・
ルルルル・・・・・
風よ吹け 波よ打て
それであなたにつぐなえるならば
海よ海に流れがあるならば
届けてほしい この想い
届けてほしい この想い


そして現在の分析化学研究室の教授の早下先生から、昨年度は国際学会で5人の学生さんがポスター賞を受賞されたというお話がありました。私が通学していたころには私も含めて優秀な学生はそんなにいませんでしたが、現在の分析化学研究室は優秀な学生さんが支えていることは間違いないようです。





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▲ by ryott-ryott | 2011-06-27 23:29 | ゲンダマ会